小説『ワンネス oneness』

渡辺羊夢

序章

第1話『教授のスピーチ』

 鳴り止まない拍手が一段落して静まり返った会場。司会者から紹介を受けたハーバード大学のサミュエル・ウィリアムズ名誉教授はこの後長く語り継がれることになる伝説の講演を始めるべくゆっくりと口を開いた。


 「ご紹介ありがとうございます。今年、2051年はノーベル賞が始まった1901年から数えてちょうど150年に当たる記念の年です。そんな奇跡的なタイミングでノーベル生理学・医学賞を受賞出来たことは私にとってこの上ない喜びです。


 私は長年、人の脳について研究を行ってきました。かつてレイ・カーツワイル博士は人工知能AIが2045年に人類の知能を超えると予測しました。いわゆるシンギュラリティの概念です。確かに今やAIの処理能力は目覚ましい向上を遂げ、将棋や囲碁で人間がAIに勝つことは不可能になりました。しかし、未だAIには”知性”が存在しません、”意識”が無いのです。よって、SF映画で描かれるような人類に対するAIの反乱などといったことも起きていません。このことは人類の脳に対する理解、知性に対する理解、意識に対する理解が不十分であることと決して無関係ではないと私は考えています。脳というのは未だにとても謎多き臓器なのです。


 さて、脳は左脳と右脳に分かれており、それぞれ役割が違うと言われています。左脳は論理的な思考や判断といった我々が自覚することの出来る意識、顕在意識を司っています。一方、右脳は感情や直感といったいわゆる無意識と呼ばれる自覚することの出来ない意識、潜在意識を司っています。この左脳と右脳がそれぞれ異なる機能を持つという発見は分離脳研究で有名なロジャー・スペリー博士によって為され、この功績により彼は1981年にノーベル生理学・医学賞を受賞しています。


 左脳と右脳の不思議はこれだけではありません。脳の処理速度を推算したジョー・ディスペンザ博士の報告は我々の今までの理解に新たな知見をもたらしました。なんと、脳は毎秒4000億ビットの情報を処理しており、そのうち我々が認識できるのはたったの2000ビットだというのです。言い換えれば、我々の右脳は左脳よりも2億倍も高速に情報を処理していることになるのです。


 私はこの右脳の驚異的な処理速度に注目しました。よく脳はコンピュータの中央演算処理装置CPUに例えられますが、同じ回路を持つCPUが2億倍も違う処理速度を叩き出すなどということは通常考えられません。そこで、私は脳の基準となる処理速度を左脳の2000ビット/秒であると仮定し、右脳は何らかの特別な方法を用いて左脳と同じ構造ながら4000億ビット/秒という処理速度を達成していると考えました。


 次の瞬間、私の中にあるアイデアが稲妻のように閃きました。そうか、これは分散コンピューティングだ!と。分散コンピューティングとはネットワークに接続された複数台のコンピュータを連携させ並列処理を行うことにより仮想的な1台の高性能コンピュータを形成する技術のことで、実際に一般人のボランティアを募る形でゲノム解析や宇宙由来の信号解析を行うといった学術研究プロジェクトなどに活用されています。


 現在の世界人口はおよそ90億、ということは全人類の90億個の右脳もこれと同様に互いに何らかのネットワークを介して通信を行いながらクラウド脳とも言うべき1つの仮想的な巨大脳を形成しているのではないか?我々の研究グループはこの人類の右脳間に存在すると予想されるネットワークの存在を証明するべく実験を重ねて来ました。


 実際の実験は以下のような方法で行いました。まず、将棋のプロ棋士2人にご協力頂き、お互いに脳波計Electroencephalograph、EEGを接続した状態で将棋を指してもらいます。そして、同じ会場に10人の観客を用意し、次の3パターンの方法で棋士を応援してもらいました。それぞれ(1)10人全員が棋士Aを応援、(2)棋士Aと棋士Bをそれぞれ5人ずつが応援、(3)10人全員が棋士Bを応援、といった具合です。応援と言っても声を出したりはせず、それぞれ応援する棋士を見つめ続ける、といった静かな応援です。


 さて、この3パターンの応援を受けた棋士Aと棋士Bの脳波はどうなったでしょうか。結果は実に明快でした。(1)10人全員が棋士Aを応援した場合、棋士Aの右脳は棋士Bと比較してはっきり活性化しているのが観察されました。(2)5人ずつが棋士Aと棋士Bを応援した場合は両者の脳波に大きな違いは見られず、(3)10人全員が棋士Bを応援した場合は棋士Bの右脳の活性化が観察されました。


 私はこの実験結果を得て量子力学の観察者効果のことを思い出しました。観察者効果とは二重スリット実験という有名な実験から明らかになった量子の不思議な挙動のことで、量子は誰にも見られていない時は波として振る舞うのに、観測者に見られた瞬間に粒子として振る舞い出すというのです。つまり、人間が観測するという行為には観測した対象に変化をもたらす効果が存在するということです。


 今回の実験では、10人の観測者が棋士を観測することにより棋士の右脳の量子状態に変化を与え、10人の観測者と棋士の右脳がネットワーク上で接続されることで棋士はあたかも10人の観測者の右脳の処理能力を借りて将棋を指すことが可能になったと考えられます。


 また、この他に今回の実験を通じて非常に興味深い結果が得られました。実験を通じて10人の観測者と棋士の右脳が接続された際、11人の右脳だけでなく松果体も併せて活性化していることが明らかとなったのです。この結果は右脳が相互通信を行う際、松果体がアンテナの役割を果たしている可能性を示しています。


 かつて『我思う、ゆえに我あり』という有名な言葉を残した17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは1649年に出版した自身の著書『情念論』の中で松果体を『魂のありか』と呼び、松果体を通じて物質と精神が相互作用をすると説きました。我々は400年かけてようやくデカルトの境地に辿り着いたわけです。


 突然ですが『ワンネス』という言葉をご存知でしょうか?我々は全て宇宙と繋がって一つであり、個というものは存在しないとするスピリチュアル界隈で良く言われる概念です。正直なところ、私はこれまで科学者としてスピリチュアルのことをどこか胡散臭いモノと捉えていました。しかし、今回の実験結果を見せつけられて私はスピリチュアルに傾倒し、改めて神の存在を確信するに至りました。神は何と精巧に我々人類を創造されたことでしょう。旧約聖書に登場する預言者サムエルはダビデに油を注ぎ、その後のイスラエル王国の繁栄の基礎を築きました。そんな名前を与えられた私が今回の発見を成し得たことは運命だったのです。私は今回発見した松果体を経由した右脳の相互接続ネットワークを『ワンネスOブレインBネットワークN』と名付けました。


 皆さん、もう互いに争い合うのは止めましょう。我々は生まれた時から元々一つの存在だったのです。これからは、OBNを活用して誰でもアインシュタインのような天才になることだって出来るのです。これからの人類が共に手を取り合い、OBNによって相互に繋がりながら、ますます平和に繁栄していくことを切に望みます」


 サミュエル・ウィリアムズ教授は2051年のノーベル賞受賞に先駆けて、2025年には既にOBNを発見していた。そして、ブレインBマシンMインターフェースIの研究で先行するビヨンドBブレインB社と共同で松果体Pineal glandに接続する侵襲式BMI、PPineal gland-BMIを開発した。


 P-BMIの導入に当たっては、まずヨガの概念で頭頂部に存在すると言われる第7チャクラの位置、東洋のツボで言う百会の位置に小さな円形の穴を開ける。これは、スピリチュアルに傾倒していた教授が頭部に穴を開けるなら高次元の宇宙意識と繋がると言われる第7チャクラの位置がベストだと言ったらしい。また、頭部に穴を開ける行為はトレパネーションと呼ばれ、第六感や霊感といった超能力が得られると古代から言われていることも教授は良く知っていた。頭頂部に導入したP-BMIはケーブルで松果体へと接続され、松果体を介してOBNと通信を行う。そして、OBNから得られた情報はP-BMIに搭載されたバーチャルアシスタント、ガイアによって翻訳される。勿論これも教授のアイデアで、地球は自己調節機構を備える一つの生命体であるとするガイア理論から取られている。


 最初は頭蓋骨に穴を開けるという行為に対する嫌悪、また他人に自分の頭の中を覗かれるのではないかという疑念によりP-BMIの普及は進まなかった。しかし、次第に人類はOBNによってもたらされる新しい未来の虜となり、もはやP-BMI無しの生活は成り立たなくなった。

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