09 無茶するに決まってる

 ストーカーから遮るように、ユユちゃんを右手で下がらせる。


「知ってる人?」


「し、知らない、あんな人……!」


 念のために聞くと、ユユちゃんはかぶりを振って力強く否定した。まさに怖いものを前にした怯えようである。


「というわけだけど?」


「彼女は照れ屋さんなだけだよ。お友達の前だから、素直になれないんだよね?」


 ストーカーの下手くそなウィンクに、ユユちゃんは震え上がった。


「大丈夫、君の気持ちはよくわかってる。僕らの心は繋がってるんだ」


 まるで受信した電波と会話しているかのように、その眼は取り巻く世界を正しく映していない。すべてが自分の都合のいい解釈だけで動いているのだろう。


 ハルを付け回していたタイプのストーカーだ。


「誰も僕に優しくしてくれない。見向きだってしてくれない。大学でもずっとひとりぼっちだった僕に、君だけが優しくしてくれたんだ。君だけが僕を見つけてくれたんだ」


「優しくって……落としましたよ、ってサイフでも拾ってくれたのか?」


「なんだ、お友達にも話してたのか。それで僕のことを覚えてないって嘘ついちゃうとか、脇が甘いんだから。そんな照れてる君も可愛いよ」


 気持ちの悪いウィンクに襲われ、ユユちゃんは小さな悲鳴を漏らした。こんなおぞましい生物がこの世界にいることに。そしてそんな化け物に、自分が今まで付け回されていたことが、ただただ恐ろしく震えているのだ。


「サイフ拾って貰っただけで、相手が自分のことが好きだとか。どんな人生送ってたらそんな勘違いするんだよ」


「勘違いじゃない! だって大学じゃ、誰も僕のことなんて見てくれない、優しくしてくれないんだぞ。彼女はそんな僕に優しくしてくれたんだ。それって僕のことが好きだから、優しくしてくれたってことだろ」


「それでそんな勘違いするとか、よっぽど惨めな人生を送ってきたんだな。そんな惨めなストーカー野郎に、常識を教えてやる。それはな、ただの親切って言って、人並みに優しければ誰だってする当たり前だ」


「う、嘘だ! 今までそんなものされたことなんてない。そんな優しさをかけてくれたのは、彼女だけなんだぞ!」


「まあ、それもわかるよ。散々犬の玩具にされた薄汚いテディベアみたいな奴に、誰だって近寄りたくないからさ。ユユちゃんはおまえに優しくしたんじゃない。ただ、差別しなかっただけだ」


「うるさいうるさいうるさい! 部外者が適当なことを言うな!」


 その場でストーカーは地団駄を踏んだ。完全に子供の癇癪であり、いい大人がしていい駄々ではない。


 ストーカーは僕のことなんてもういい。そう開き直るようにユユちゃんを向いた。


「僕はシャイだからさ。君の想いにどう接したらいいかわからなくて……ずっと影から見ていることしかできなかったんだ。だけどつい、君たちに混ざりたくなっちゃって……」


 くねくねと気持ち悪い動きをするストーカー。尊いとはつまり、女の子同士のキスに興奮したってことか。たしかにそういうマンガとかアニメを好きそうな顔をしている。


「でも、そんな奴はもうどうでもいい。こうして顔を合わせて、やっと勇気が出てきた。君の気持ちに応えたいって、心から思ってる。僕のお姫様、迎えに来たよ」


「嫌ッ!」


 ストーカーが手を差し伸べ、一歩踏み出してくるとユユちゃんは悲鳴を上げた。


「なんなんですか、あなた……」


「僕は、君の王子様だよ」


「それがなんなのって言ってるの!」


 目端に涙を溜め込みながら、ユユちゃんはもう我慢できないというように叫んだ。


「もう嫌だ……気持ち悪い! 近寄らないで! あなたのことなんて覚えてないから! 二度とわたしの前に現れないで!」


「なっ!」


 感情を爆発させたユユちゃんに、信じられないものを目にしたかのようにストーカーは驚いた。


 ずっと自分の都合のいい解釈、世界を夢見てきたストーカーも、流石に目が覚めたようだ。ジッと地面を見つめながら、ぶるぶると身体を震わせている。


「……たな……たな」


 ぶつぶつとストーカーはなにか言っている。


 少なくとも大人しく引き下がろうとする、よき兆候ではなさそうだ。


「裏切ったな……」


 一歩、一歩、そしてまた一歩近寄ってくる。


「……僕の気持ちを裏切ったな!」


「下がってユユちゃん!」


 ユユちゃんに向かって突進してくるストーカー。それを察した僕は、ユユちゃんを後ろ手で押すと立ちふさがった。


 腰を落としながらストーカーとぶつかって、そのまま抑え込もうとする。ぶよぶよでいかにも運動などやっていない肉体だ。ただし体重差がありすぎた。拮抗したのは精々三秒。もみ合った結果、転ぶようにして押し倒されてしまった。


「がっ!」


「ルカくん!」


「だ、大丈夫だから……下がってて、ユユちゃん」


 頭を打ち付けるのだけは逃れたが、それでも背中や手などは強く打ち付けられた。上にこんな重しがあるのならなおさらだ。


「まだ、いけるから!」


 それでもこのくらい大丈夫だと示すように、僕は大声で叫んだ。


「ふ、ふん! わかったか! これが大人の男だ!」


 ぜえぜえ言いながらも、僕を馬乗りにできたのがよほど嬉しかったのか。自分が上だと示すようににんまりとした。


「さ、さっきは散々好き放題いいやがって。謝れ! 謝れ! 謝れ!」 


「まあ、現実を突きつけられるとムカつくよね。みじめな人生を送っている勘違いストーカー野郎さん、事実を言ってごめんなさい」


「ぐっ! まだ自分の立場がわかってないのか!」


 僕の両腕は完全に掴まれて、抑え込まれている。痣になるんじゃないかっていうほどに力強く握り込まれ、地面に押し付けられていた。それなのにこうして余裕ぶっているのが気に食わないようだ。


「お、女だからって殴られないとでも思ってるのか?」


「実際、殴れないじゃないか。手を離した瞬間、その粗末なものを握り潰してやる」


「な、殴れなくたってな、お仕置きくらいできるんだぞ」


 言うとストーカーは、顔を近づけてきた。


「その減らず口を叩く唇を塞いでやる」


「うえっ」


 想像しただけでも気持ち悪い。


 一応今の僕は可愛い女の子。女の子とキスできて口も塞げる、一石二鳥とでも思ってるのだろう。


「言っとくけど、僕、本当は男だから」


「こんなに可愛いのに、今更男を騙るのなんて無理だよ、僕っ子ちゃん」


「くっ、そこまで完成度が高いのか、僕は……」


 男だと信じてもらえない弊害が、こんなところで出てくるとは。


 もっと引き伸ばしたかったが、これ以上は無理だ。事故とはいえユユちゃんとキスした感触を、こんなおぞましいもので上書きしたくない。


「はぁ……仕方ない。ギブアップだ! こんな気持ち悪い奴とキスなんて死んでもごめんだ!」


「今更謝ったって遅いからな、ちゅー、しちゃうからな」


「そうか。だったらせめて、これだけは教えてくれないか?」


 この後に及んで、まだこの余裕。ストーカーは怪訝な顔をした。


「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。オタクっぽそうだし、こんな言葉くらい聞いたことあるだろう」


「……は? なにを、言いたいんだ?」


「なんでストーカーって奴はどいつもこいつも、自分も同じ目にあってるかもしれないって考えないんだ? って呆れてるんだよ」


「だからそれがどういう――グエッ!」


 潰れた蛙のような声を吐き出すと、身体は軽くなった。


 ストーカーが視界から消えると、コンクリートに肉が叩きつけられる音がした。痛みに悶え苦しむ、声にならない悲鳴が聞こえる。


「薄汚いテディベアとは、言い得て妙だな。まさにこれは、こいつに相応しい撃退グッズだ」


「あぁあああああああああ!」


 なにかが噴射される音がすると、今度こそ本物の悲鳴が上がった。


「え、え?」


「大丈夫か?」


 突然のことに戸惑っているユユちゃん。そんな声に重なるようにして、ごつい手は差し伸べられた。


「うん、このくらい大したことないよ、ハル」


 ハルの手を掴むと、グッと僕は引き起こされた。


 ジタバタ悶え苦しんでいるストーカー。熊撃退スプレーを持ちながら、アキが逃げないよう目を離さずにいる。


「な、なんで右城くんたちが……?」


 突然のふたりの登場に、ユユちゃんは戸惑った。視線がふたりの間を行ったり来たりさせている。


 今日は一日、なにも考えずユユちゃんには楽しんでほしかった。だからふたりのことはずっと黙っていた。このことについては帰ってからふたりと話し合い、後日ユユちゃんに教えるつもりだったのだが……まさかこんな形でネタバラシをすることになるとは。


「ストーカーを相手するのは初めてじゃないんだ、僕たち」


「そ、それってどういう……」


「ユユちゃんを付け回している奴がいないか、ふたりに後をつけさせていたんだ」


「嘘っ、全然気づかなかった!?」


 ユユちゃんは両手を口に当てて仰天する。


「まあ、今回は星宮もいたから三人だったがな」


「こいつが怪しいと最初に睨んだのも、星宮だったからな」


 ふたりがそう補足した。


「い、いのりもいるの?」


「いや、星宮は暗くなる前に帰した。ストーカーの顔さえ割れれば、後は俺たちふたりで十分だからな」


「こいつのヤサを割って、大学なり会社なりに押しかける算段だったんだが……思った以上に間抜けな奴だったな。おかげで警察を呼べる証拠を掴めた」


 星宮さんを探そうとするユユちゃんにハルは答え、アキはビデオカメラを見せた。


「る、ルカくんはストーカーが見つかったこと、ずっとわかってたの?」


「ハルから報告が来てたからね」


「じゃあ、証拠を撮影していたのも……?」


「スマホを見れない状況のときに備えて、電話のコール数でサインを決めていたんだ。3コールは証拠撮影中のサインだよ」


「あのときの……」


 ストーカーが現れたとき、すぐに電話が鳴った。3コールで切られたことで、こいつがストーカーであることを確信したのだ。


「だからあんなに強気に出てたんだ……」


「一発殴られるくらいのつもりでいたからね。凶器を出されたら、ふたりがなんとかしてくれるって信じてたし」


「正直、押し倒された段階で取り押さえようとしたが……まだいけるって言われたからな。甘井のために有利になる証拠を、少しでも集めいっていう男気は無下にできん。そこはぐっと堪えた」


「そんな男気溢れたルカも、さすがにキスの恐怖にはギブアップか、と思ったな」


 僕たちは見合って、ドッと笑いあった。


 一方、ユユちゃんはどこか納得いかず。ふたりの存在を隠されていたことへの憤りなどではなく、ただ悲しそうにしていた。


「……わたしのために、そこまでしなくてよかったのに」


 ユユちゃんは僕の手を取った。握りたいのではなく、手の甲に目を落とした。倒れ込んだときに擦りむいたのか、ところどころから血が滲んでいた。


「わたしをかばって、怪我までしちゃって……」


「こんなの怪我のうちに入らないよ」


「それでも……いくらふたりがいたからって、あんな無茶してほしくなかった」


 ぽつん、と手の甲に雫が落ちてきた。


 自分のせいで怪我したことを気に病んでいるのか、ユユちゃんは泣いているのだ。


 こんな悲しみかたをしたユユちゃんは、今まで見たことなかった。……いや、一度だけあったのを思い出した。


 父さんの再婚が決まり、引っ越すことになったと告げたときだ。最初は駄々っ子のように嫌だ嫌だと言っていたが、それでどうにもならないとわかると、こんな風に僕の手を掴んでずっと泣いていたのだ。


 あのときはユユちゃんを泣き止ませることはできなかった。


「君はまだ、お姉さん気取りかもしれないけど。それでももう、あの頃のように引っ張られてきた僕じゃない」


 でももう、僕はあのときの子供じゃないのだ。


「無茶しないでほしかったって? ユユちゃんのピンチなんだ。男なんだから無茶するに決まってるだろ」


 ユユちゃんにはそれをわかってほしかった。


「……本当だ。あんなに女の子みたいで可愛かったのに」


 涙を流しながらハッとしたユユちゃんは、


「こんなにも男らしくなっちゃって。もう、お姉さん気取りはできないや」


 あれだけ拘っていた一時間を手放して嬉しそうに微笑んだ。

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