幽霊講義
@rona_615
第1話
話の区切りが良いところで、腕時計に目を落とす。次の内容に進むほどの時間は残っていない。
「少し早いですが、キリが良いので、今日はここで終わります。来週はこれが二分子になるとどうなるか説明するので、ちゃんと復習しておいてくださいね」
昼休み前の講義を早めに切り上げるのは学生にとって有難い出来事のはずで、現に彼らは私のその言葉が終わる前に席を立ち始めた。
授業のためのメモをトートバッグに突っ込み、黒板を消す。再び振り返った時には、ほとんどの学生は部屋を出ており、残る数名も弁当箱やらコンビニのおにぎりやらを机の上に並べている。
その代わりのように同僚の鈴木が出口に立っていた。片手を上げた彼に、同じ動作で答える。
「昼飯に行こうとしたら、ちょうど講義を終える声が聞こえたんでな。一緒にどうだ?」
「財布は研究室に置いてきたんだけど」
「貸してやるくらいの余裕はあるさ」
耳元へと落ちた癖毛に触れながら言う彼に、私は「それは助かる」とだけ返した。
「相変わらず、よく通る声だな、新居橋センセ。マイクなしだってのに、廊下からも内容が聞き取れたぜ」
そういう鈴木は、自身の低い声が気に入っていないようで、いつもマイクを片手に講義を行うという。
「左手にノート、右手にチョークで、マイクを持つ余裕がないだけだよ」
返事代わりの苦笑を聞いて、私は足を早めた。
鈴木も私も、同じ学科の講師だ。大学に雇われたのは、鈴木の方が一年遅いが、年齢は34歳で同じ。数少ない“若手”ということもあり、こうしてしょっちゅうつるんでいる。
ひょろりとした、なんて枕詞がぴったりの長身で、手も足も無駄に長い。ギリギリ整っている範疇に入る顔面のおかげで、くしゃくしゃとした癖毛もお洒落に見えると、女子学生からの評判は良い。紺色のシャツの上に羽織った、お決まりのグレーのジャケットのポケットに、親指を引っ掛けるようにして歩いている。
私だってそんなに身長が低い方ではないけれど、隣にいる彼の目を見るには、大きく首を曲げることになる。
教授会で上がった議題なんかを、適当に口にしながら、正門へと足を進めた。
青空の下で、イチョウ並木の黄色が眩しい。照った日に釣られたのか、いまだにTシャツ姿の学生が目に留まり、思わずパーカーの前を閉じた。
向かったのは駅から一本入った路地にある、やや古びた一軒。居酒屋だが、昼には定食を出す。目立たない立地と少し高い金額のおかげで、学生客が殆どいない、良い店だ。
「そういえば、三年の泉って分かる?去年まで真面目に来てたのに、ここ最近、急に遅刻欠席が多くなった」
定食がきたタイミングで振った雑談に、鈴木は茶碗を手に取りながら応じる。
「泉っていや、あのむっくりとした、眼鏡の?去年の俺の講義では、一番前に座って聞いてた気がするが……」
「そう、その子。さっきの授業を取ってるんだけど、最初はど真ん中で熱心にノートをとってたのに、ここ数回は休んだり、来てもうつらうつらしててさ。顔色も悪いから声をかけてみても『ちょっと疲れるだけです』なんて言うだけなんだよね」
刺身へと箸を伸ばしながら続けると、唐揚げを口に頬張った鈴木は無言で何度か頷く。返答が聞けたのは、彼が口の中のものを味噌汁で流し込んでからだ。
「他の奴らに聞いた話だが、あいつ、『幽霊が出る』って言ってるらしいぜ」
「……幽霊?」
「あぁ、それで家に居たくないって、遅くまでバイトをいれてるそうだ」
「いっつも思うんだけど、そういう噂、どこで仕入れてくるわけ?」
眉をひそめて見せた私に、鈴木は片目を細め、気障ったらしく答える。
「学生の中に、この身ひとつで飛び込めば、これくらい」
「……ちょうど学生実験のタイミングだっけ」
「おう、待ち時間が多い実験だからな」
「あんまりお喋りが過ぎると、またアンケートに文句ばかり書かれるよ」
呆れた気持ちが伝わるよう、ため息をついて、湯呑みに手を伸ばす。
それはお前もだろうと混ぜ返す彼の台詞をきっかけに、そのときの話は、幽霊からも学生に向けた心配からも、逸れてしまったのだった。
そんなやりとりから二週間後。噂話を思い出したのは、その名が耳に届いたのがきっかけだ。
演習課題を早々に終えた一団、その中でも一際声の大きな男子が「泉のやつ、このままだと留年じゃね?」と言ったのが聞こえたのだ。
「泉くんって、他の授業も来てないの?」
鈴木にはああ言ったけど、これくらいの雑談なら日常茶飯事。学生たちも次々に返事を口にする。
「光貴のやつ、LINEは既読になるんっすけど、全然返信なくて」
「実験も休んでるみたいだから、やばくね?」
「前はバイトばっか行ってたみたいだけど、最近やめたって」
「え、じゃあ引きこもりってやつ?」
「バイト先にも幽霊が出たって、前にツイッターで呟いてたっけ」
口々へ上がる言葉を遮るかのように、一人の学生が立ち上がった。
「昨日家に行ったら、腹が痛いって寝てた。変なことばっか言うなよ」
そのまま講義室を出て行ってしまった彼の表情が、やけに険しかった気がして、残された学生たちに質問を重ねる。
「あの子、泉さんと仲がいいの?」
「大内?中学から一緒だって」
「一人暮らしは心配だからって、親に同じアパートにさせられたって言ってた」
「けどさ、幽霊ガーとか祟りガーとかいう話って、言い出したのはあいつじゃん?」
もっと詳しく話を聞くべきかと思ったが、講義室の反対側で手を挙げている学生が目に留まり、私はその場から離れたのだった。
事態が大きく動いたことを知ったのは、翌週の学科での会議のときだった。
議題もあらかた片付いたところで、学科長が「二年生の泉くんが亡くなりました」と告げた。
「不審な点があるため、大学内での聞き込みを行う可能性があるそうです。
なるべく協力してほしいとのことでしたが、学生たちのケアを優先してください」
翌日の昼休みに研究室を訪ねてきたのは、警官二人組。私と同じ年くらいに見える女性と、彼女の部下らしい若い男性のコンピだった。
「泉光貴さんについてお聞きしています。亡くなったことはご存知ですよね?」
男性刑事がメモを手に問う背後で、葛西と名乗った女性は部屋の様子を探るように、目線だけを動かしていた。
授業への出席状況なんかの当たり障りのない内容は、既に他の教員から聞いていたのか、男性刑事は頷くだけ。彼の手が動いたのは、学生間での噂話だと前置きした上で挙げた”幽霊”の話になってからだった。
「実は、泉さんを、その、発見したのは、大内卓さんなんですが。彼もその話は知っていたんでしょうか?」
「私が聞いたときには、否定的な様子でしたけれど。ただ、『言い出しっぺ』みたいに言う学生もいましたね」
「実は、泉さんが倒れていた場所には、何枚もお札が落ちていて。大内さんが持ち込んだと供述しているんですが……」
ボールペンの後ろでこめかみを叩く男を無視して、私は葛西刑事へ視線を向ける。
「こんなふうに聞き込みをされているということは、やっぱり事件なんですか?大内くんも関係してると?」
問われた彼女は、右手で相棒を制するような所作をしながら、早口でこう言った。
「それを調べるのが、私たちの仕事です」
「生一つ。あとカシオレ」
ショートヘアを赤く染めた店員の女の子は、ビールを鈴木の前に、残ったグラスを私の前に、それぞれ置いた。彼女がテーブルを離れてから、鈴木はグラスを入れ替える。
「よく初っ端から甘いものを飲めるね」
鈴木の癖だと知りつつ、からかいの言葉をかけた。
「空きっ腹にアルコールは良くないからな」
気心の知れた相手同士、返す声には笑いが混じっている。軽くグラスを合わせると、鈴木は一気にカシオレを飲み干した。
「ビール、追加で」
「あ、私にも」
グラスには1/3ほど残っているが、次のビールが来るまでには空になるはずだ。
「サシで飲むのは久々だが、相変わらずのペースだな」
「お互い様って言葉、知ってる?」
メニューを広げながらの軽口は、いつもと違い、続かない。その理由を口にしたのは、注文した料理が全て揃ってからだ。
「で、やっぱりお前んとこにも、刑事が来たのか?」
焼鳥を右手、ビールを左手に振る話題ではないと思いつつ、私も枝豆に手を伸ばしながら答える。
「あぁ。聞くばっかりで、何も教えてくれなかったけどね」
「……殺人ってことで動いてるらしい。発見したやつのことを疑ってるようだぜ」
声を顰めた鈴木に合わせ、テーブルの上に身を乗り出す。
「まさか、大内くんを?てか、なんで、知ってるんだよ」
囁くように返すと、鈴木は「ちょっとだけ、伝手があるんだよ」と言いながら、人差し指をピンと立てた。
泉が発見されたのは、十二月最初の日曜日。部屋を訪れた大内が、ユニットバスの中で倒れている彼を見つけたのだ。
「実家から食べ物が色々送られてきたんすけど、母親がいつも『光貴くんにも渡すように』っていうから」
訪問の理由について、そう大内は答えた。けれども、普段であれば泉に取りに来るよう連絡するだけとの証言もあり、この供述には疑問が残る。
玄関のドアは施錠されていたが、合鍵で開けたという。鍵を預かっていた件については「母親同士が勝手に決めただけで、反対するのも面倒だったから」と無表情で述べた。
死亡推定時刻は、前日の19時から21時。首の左側に深い傷があり、即死に近い状況だった。
傷口の形状は、ユニットバスに落ちていた包丁の刃と一致したという。
躊躇い傷がなかったことや、包丁から指紋が検出されなかったことなどから、警察は殺人の疑いが高いとみている。
凶器となった包丁は泉が所有するもので、流しの下に仕舞われていた。
ユニットバス内部には飛び散った血を流した跡があり、犯行がここで行われていたことは間違いない。
これだけの情報を一気に喋ると、鈴木は二人分のビールのおかわりを頼んだ。
「お札が落ちてたのは、ユニットバスの中?」
「らしいな。和紙に文字なんかが書いてあるやつで、血やら水やらでぐちゃぐちゃだったって聞いたぜ」
「……大内くんが持ち込んだっていうのは?」
テーブルの周りに人はいなかったけれど、ことさら声を落として尋ねる。
「あぁ。幽霊がいるって騒ぐから、貰ってきたんだとさ」
「噂話には否定的だったみたいだけど」
それを聞いた鈴木は、持ち上げかけたグラスを戻し、首を横に振った。
「泉が来なくなった原因は幽霊だって、言って回ってたのはあいつだぞ」
「なら、やっぱり、最近になって態度、というかスタンスを変えたのか……」
眉を顰めた鈴木に、私は一週間前の出来事を話す。
「お札を渡したのは、随分前ってことか?事件との関係は……」
鈴木が言葉をビールと共に飲み込んだのは、隣の卓に客が座ったからだ。物騒な話を続けるわけにもいかず、私たちは黙々を皿とグラスを空にした。
事件のことは学生たちに隠しようがなく、講義の最中にも、小声での噂話が止まらない。
真面目で成績優秀な泉くんと、成績は悪いが友達の多い大内くん、というのが大学での印象だったが、二人の間では違ったようだ。
「高校までは、卓の方がずっと頭良かったからって、泉のやつ、しょっちゅう『たっちゃんには敵わないから』って言ってたよな」
「けどさ、光貴の方が成績は良いっしょ。インターンだって大手に決まってたし」
「差がついたってわかってんのに、あぁ言われんのってどうなん?」
「大内は嫌そうだったよな、なぁ?」
演習の課題もそっちのけで囁かれる話に、私もつい耳を傾けてしまう。が、その先は本人たちからしてもあまり居心地は良くなさそうで。
「ほら、喋ってないで課題を終わらせて。分かんないなら、説明するから」
話を止めるためだけの注意だったのに、学生たちは黙ってシャーペンを手に取ったのだった。
「やっぱり、大内くんに話を聞くべきかな」
すっかり葉の落ちた銀杏並木を歩きながら、私は鈴木に尋ねる。さりげなく聞こえるように気を配ったつもりだが、彼はスッと無表情になった。
「事件のことが気になるってだけなら、やめとけ」
そんな探偵の真似事をする趣味はない。ため息でそれに答えると、鈴木は言葉を続けた。
「噂とかで困ってないか心配なら、一緒に話を聞いてやるよ」
居室や講義室に呼び出すよりは良いだろうと、面談はテラスで行うことにした。
建物から屋根が伸びているとはいえ、肌寒い時期のこと。利用者は私たち三人しかいない。
「大学には来れてるみたいだけど、体調とか気分とかはどう?」
こんな場をわざわざ設けた理由を彼も分かっているだろうけど、当たり障りのない切り出し方になってしまう。
テーブルを挟んで向かい合った大内くんは、私と鈴木へ交互に視線を送りながら、口を開く。
「……泉のことですよね。心配かけて、すみません」
「俺のとこにも刑事が来たけど、あいつらが負担になってたりはしないか?」
鈴木は、いつもよりもゆったりとしたペースで言葉を発する。その彼に身体ごと向き直ると、大内くんはふっと……笑った。
「第一発見者ですし、それに」
動きを止めた私には構わず、大内くんは音を立てて息を吸い、吐く。
「僕が、犯人ですから」
音を立てて椅子を引いた教員二人の様子は意に介さず、大内くんはレポートを読み上げるような口調で、話を続ける。
地元では自分の方が上だったはずが、大学に入ってから逆転してしまったこと。
地元の知り合いには隠していたが、インターン先がバレたせいで勘づかれはじめたこと。
それなのに態度を変えない泉くんが気に障ったこと。
「だから、ちょっとでも、ダメになってくれればいいって思って、心霊スポットに連れてったんです」
何もない物陰を指し「……おい、あれ」なんて呟くだけで飛び上がる様子に、溜飲が下がったという。
「帰ってからも、留守の間に合鍵を使って物を動かしたり、隣の部屋から壁を叩いておきながら知らんぷりしたり……
相談されたら『幽霊がついてきたのかも』って怖がって見せたりもしました」
それだけで終われば、事件にはならなかったのかもしれない。けれども、泉くんは家にいられなくなってしまった。
「それで無茶なバイトの入れ方をして、身体を壊して……。
俺の嘘が理由なら、適当なお札でも気休めになるかと思って、自分で書いて渡したんです」
噂話を広めるのをやめたのもこの頃で、泉くんがおかしくなった理由を知られたくなかったらしい。
「けど、あいつ、治んないままだし、インターンだって行けなくなりそうだったから……全部話したんです」
顔を上げたまま、淡々と喋りながらも、大内くんは右目だけぎゅっと細める。
「そしたら、光貴のやつ、お札を握ったまま、追いかけてきて。包丁まで取り出したから、俺……」
ユニットバスに逃げたものの、扉を閉める前に泉くんが入り込んできたという。
「揉み合ってるうちに、首に……。指紋がついてると思ったから、包丁は拭いて。
お札は持って帰りたかったけど、血まみれで無理で。せめて跡が残んないようにってシャワーで流したんだけど」
細められた右目から、涙がつっと流れる。それを拭うこともなく、大内くんは立ち上がった。
「このまま、警察に向かいます。自首した方が得だと思うんで」
真っ向から向けられた表情から、逃れてはいけない気がした。机の下で、手のひらに爪を立てる。
表情も体勢も変えないままの相手を暫く見続ける。やっと、と言いたくなるだけの時間をおいてから、彼は腰を90度に曲げる深いお辞儀をし、私たちに背を向けた。
去っていく姿から視線を離し、テーブルに落とせたのは、その大きさが小指ほどになってからだった。
「解決祝いって気分にはならねえけど、とりあえず飲みに行くか?」
鈴木の提案はありがたかったが、今の顔を見せる気になれない。了承の意だけは伝えるべく、首を前後に動かす。
と、不意に彼の右手が頭の上に置かれた。指先だけを動かして、ぽんぽんとあやすようなリズムを取るのは、髪型を崩さない配慮だろうか?
喉の奥に力を入れるようにして、息の震えを抑える。
「……一応、女性が相手だよ。むやみやたらにそういうことするの、どうかと思う」
「新居橋センセにしか、やらないさ。口説いてみるのは、しばらくお預けみたいだけど」
反射的に顔を上げた。眉を顰め、目を細め、じっと見つめてみる。睨んでいるように見えれば良いんだけど。
「……数少ない女性教員相手に、笑えない冗談だね」
「本気。手助けしたのも、花江センセだからだ」
下の名前で呼ばれたのは初めてで、きゅっと息を飲み込む。
「まぁ、今は忘れて。それより、どこで飲むよ?」
さりげない感じを装うように、鈴木は右の指先で自分の耳に触れる。
事件のことが報道されれば、しばらくは慌ただしい日々を送ることになるだろう。それを今だけは、忘れて良いと言われた気がした。
その気遣いが正直ありがたかったので、彼の目元が赤くなっていることは、指摘しないことにした。
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