第13話:どん底
「美桜、今日も学校行かないの? いい加減にして」
(……うるさいな)
「何が気に入らないの? 今日でもう何日になると思ってるの?」
(……うるさい)
「お母さん、先生になんて言ったらいいのよ。まったく、何でこんなことになっちゃったの」
休み初めはうるさく言ってきた母親も、休みが続くにつれ、最近は話しかけてこなくなった。
学校を休んでいるからと言って、何かが楽になるとか、吹っ切れるとか、そのようなことは一切なかった。
芽生える感情は、このまま私はどうなってしまうのかという焦りと不安。
こんな時でも、結局私は私のことを考えている。
おそらく、学校はいつもと変わらない時間がすぎているのだろう。
ただもしかすると、私が休んでいることに対して不審に思った青井が、これまで私からどんな仕打ちを受けていたかを友達に話しているかもしれない。
自分が受けた理不尽な状況を打破するために、意を決して自分のことが嫌いなのかを私に聞いたが、回答を保留された上、当の本人は不登校になった。逃げた。と、周りの人間に言いふらしているかもしれない。
本来、私は真っ先に青井にこれまでの行為を謝罪しなければならない立場。
それなのにこの有様。
普通、友達と喧嘩したらどう仲直りするのだろう。
いや、私の場合、青井は友達ですらないし、喧嘩でもない。
怖い。
どうしたらいいかわからない。
こんな堂々巡りを、何十回、何百回と繰り返したが、いくら悩んでも考えても、答えなど出るわけがない。
間違いなく状況はどんどん悪くなっている。
青井はまったく気にしていないのかもしれないが、それは楽観的すぎる。
(わたし、なんで生きてるんだろう)
そろそろ、なんとかしなければいけない。
このままじゃいけない。
頭ではわかっているが、もはやどうしようもなかった。
横になっていたベッドから起き上がる。
まったく動いていない生活なのに、体の節々が悲鳴をあげて痛い。
泣きすぎて目も腫れていて、とても見れた顔じゃないだろう。
かろうじて立ち上がり、数日ぶりに締め切ったカーテンを開ける。
私の心とは裏腹に、すっきりと晴れた景色が広がっていた。
家の目の前が開けていることもあり、遠くにある山、家々、そして、せわしなく行き来する車の姿が見える。
ただそれだけなのに、窓ガラス一枚しか挟んでいない外の世界が酷く明るく見え、自分の部屋とは大きくかけ離れているように感じ、何度目かわからない涙が、ただただ流れた。
(もう全てがどうでもいい……)
いたたまれなくなりカーテンを閉めようとした。
「………………おー」
(………………?)
「…………おー」
(呼ばれてる? ………………気のせい?)
「……み……」
「みおーっ!」
(私の……名前…………?)
ふと、窓から家の前の道路をみると、ちひろが両手をメガホンのように口にあて、私の名前を叫んでいた。
見間違いかと思ったが、私がちひろを見間違えるはずはない。
「ち……ひろ……?」
叫んでいるのはちひろに間違いない。
ただ、なぜちひろがここにいるのだろうか。
私の方を見て必死に叫ぶちひろと、それに気づいた私の視線が交差し、はっきりと目が合う。
ちひろは、私が自分に気がついたことが分かると、大きく手を振ってピョンピョンと合図を送ってきた。
「何で…………何で…………?」
ちひろは、手を振るのをやめると、今度は手招きをしている、こっちに来てほしいという合図らしい。
(何で? どうしよう……)
どうしたらいいか分からない。
ただ、ちひろは、なおも大きく手を振ったり、手招きしたりを繰り返している。
ちひろは笑っているが、時折目を擦っていて、どうやら泣いているらしい。
会って何を話していいのか分からない。
もしかしたら、怒っているかもしれない。
分からないことだらけだったが、私はちひろに向って大きく頷く。
そして、吊るしてあったコートを羽織って玄関へ走り、ドアを開いた。
ちひろに会うために。
「みおー!」
玄関を開けると、飛びかかる勢いでちひろが抱きついてきた。
「みおー。よかったぁー。もう会えないかと思った」
涙を流しながらちひろは言い、私の胸に顔を埋め、私を抱きしめている。
「何回電話しても出ないし、トークアプリも既読にならない。メールしても返信ない。挙げ句の果てに電話は通じなくなっちゃうし」
「変だと思って、部活終わってからみおの家行っても、みおのお母さん、みおの具合が悪いからって言って合わせてくれないし。様子を聞いても何も教えてくれないし」
「私、みお、もしかしたら死んじゃったのかと思ったんだよ」
私の腕の中のちひろの声は、涙声ではあるが確実に怒っている。
「おおげさだよ。学校には体調が悪いって連絡行ってたでしょ」
「そんなの信じられないよ。今まではお休みしてたってメッセージは既読になったし、良くなったら連絡もくれたじゃん。それが…………私が何したって反応なくて、こんなに連絡が取れないことなんて無かったじゃん。心配、するじゃん…………」
「友達でしょ!」
ちひろは、大きな声で私を友達と言った。
「………………。ごめん」
スマホなんて今どこにあるのか分からない。
触った記憶が無いので、確実に充電切れてしまったのだと思う。
着信の音もまったく頭に入ってこなかった。
まさかこんなに、ちひろに、友達に心配されているなんて想像もしていなかった。
「ごめん、ごめんね。ほんとうにごめん」
「ゔーーーー」
ちひろは、声にならない声をあげて泣いている。
恥ずかしいのか顔を私の胸に埋めたまま。
私は、何を言っていいか分からず、ただ、ちひろを抱きしめ返し「ごめんね……」と伝えるしかなかった。
どれ位そうしていただろうか。
ちひろの泣き声が落ち着いて、私の腕の中で大きく息を吸い、吐き出している。
泣きながら小さくなってしまったちひろが、自分自身を再び取り戻すかのような、大きな深呼吸。
「みお……手、いたい」
「…………?……手?…………あっ」
思いの外、強くちひろを抱きしめていたらしく、それに気づいて手を離す。
「みお何それ、面白い格好になってるよ!」
ちょうど、中途半端なバンザイのようにして手を離してしまったので、それが面白かったのかと思ったが、どうも違うらしい。
「パジャマにコート、それに、髪ボサボサ、目腫れてる!面白い……」
「…………なっ!」
気がつかなかったというか、何を着ているのかもまったく意識していなかった。
まともな服を来ていたのもいつなのか思い出せもしない。
「だ、だってしょうがないじゃん。ちひろ、急に来るし、着替える暇なんかないし。そ、それに学校はどうしたの?まだ授業あるでしょ? あれ? 今日休み? いや、違うか……」
「……普通に来たんじゃ、会えないと思った」
「えっ?」
「放課後やお休みの日じゃ、みおに会えないから。みおのお母さんがいると追い返されちゃって、会えないと思った。だから、みおの家にみおしかいない時に来るしかないかなって。みおのお母さんがいつ外出するか分からなかったから、初めて学校さぼっちゃった。でも…………本当に会えてよかった」
ちひろは嬉しそうに笑い、そう言った。
「あ、ありがとう。でも……」
「でも?」
「私に、そんな価値ないよ。わざわざ学校を休んで会いにくるだけの価値は。ごめんね。学校早退させちゃって、あれ、もしかして早退じゃなくて、休ませちゃった? ごめん。ちひろの家にも謝ったほうがいいか……」
「みお!」
強い口調で制止された。
さっきまで太陽のように笑っていた顔はもうない。
「勝手に自分の価値を自分で決めないで! 私は、私の判断でみおに会いに来たの。みおに会いたかったの。もう会えないかもしれないと思ったら、なんかこう、胸がきゅーって感じになっちゃってどうしようもなかったの! みおが自分のことをどう思っているかなんて関係ない。私にとってみおは……みおは価値のない人間なんかじゃない。私の、私の気持ちをバカにするなっ!」
先ほど、ようやく泣き止んだのに、またちひろの目からは大粒の涙が流れている。
「…………また泣かせちゃったね……ごめん」
やっぱり私は、私のことしか考えていなかった。
ちひろがどんな気持ちでここに来ていたのかも、理解できてなかった。
ちひろは私を無価値な人間ではないと言ってくれる。
相変わらず、私は私に価値なんてないと思うけど、もうそれを口に出すことはできない。
だってそれは、ちひろを傷つけ、否定することになるから。
「約束!」
「やくそく?」
「約束! みおは、自分に価値が無いなんて二度と言わない。そして、辛い時、悩んだ時は、一人で溜め込まない! 誰かに相談する! 私に相談する! 約束して!」
ちひろは、念を押すように、小指を立てた手を前に突き出す。
私は、この期に及んでなおもその手を取ることを戸惑ってしまう。
私は、私を信じていない。
信じられない。
ただ…………。
「私は、この手を取っていいのかな? 私なんかが……」
「いい!いいよ!」
「一緒に悩ませてよ! だって…………」
「友達でしょ?」
(…………あぁ、私は本当にバカだ)
「うん。約束する」
「み゛お゛ぉぉぉー」
お互いの小指を絡め、そして大きく指切りをする。
私も泣いていた。
ただこれは、いままで流した涙とは違う涙だった。
嬉しかった。
「はーーーーー」
「ん?どうした?」
ちひろが大きく息を吐く。
「何だか恥ずかしいね」
まっすぐこっちを向き、笑っている。
「それ言う?こっちまで恥ずかしくなっちゃうじゃん!」
「青春って感じ!」
「いや、ちょっ。さらにそれ言っちゃうの!」
さっきまでの嬉しさはどこへやら、今は恥ずかしさしかなく、鏡を見なくても自分の顔が真っ赤なことがわかる。
「ははは! でも、みお、いい顔になった」
「さっき、面白いって言って笑ったくせに!」
「それは今も面白いよ!」
「やっぱり、面白いんじゃん! だいたい……」
「でも、さっきまでのみおは、本当にこのままいなくなっちゃうんじゃないかって顔してた。でも、それが今は、ちゃんと心がここにあるって感じ。よかった。本当に……」
「…………ありがと」
「みお、『ありがとう』言い過ぎー」
「だって、しょうがないじゃん。それしか伝える言葉が見つからないし、あと、本当にそう思ってるから」
「…………わかってる……でも」
「でも?」
「照れるね」
「そんなこと言ったらこっちも照れるじゃん! もー、この話終わり!」
「じゃあこの話
「この話
「だって、みおの話をまだ聞いてない。悩んでる時は相談するって約束した!」
「みお、来週から学校来られる? 今日は金曜日だよ。みおが悩んでいる気持ちが晴れてて、もう大丈夫なら話はおしまい。月曜日の朝に迎えにくるから。でも、まだみおが悩んでるなら、それを何とかしないと意味ないでしょ? 私、これからも、みおと一緒に学校行きたいよ?」
「………………」
「みお?」
「そっか。そうだよね………………。ちひろ、ありがと。また『ありがとう』って言っちゃったけど、ちひろに聞いて欲しい。聞いてもらってもいい?」
「もー!さっきから聞くって言ってるじゃん!」
「そーだね。ごめん」
『ありがとう』『ごめん』さっきからこれしか言っていない。
でも、それ以外に伝える言葉を、今は持ち合わせていないのが悔しかった。
「話は聞く。聞くけど、どこで聞けばいい? みおの部屋? もうすぐ15時だけど、長くなるとお母さんとか帰ってくるんじゃない? それまでに話が終わればいいけど、私もちゃんと聞きたいし、私の気持ちも伝えたいから」
「どれくらいかかるか分からないけど、少し長くなると思う。母親には聞かれたくない。邪魔されたくない。多分、ちひろにも嫌な思いをさせちゃう。ただ、どこかいい場所あるかな。外じゃ寒いし………………どうしよっか」
「うちくる?」
「えっ?」
「だから、私のうち! 何だったら、今日泊まってもいいよ。明日まで話が終わらなかったら、明日もいていいよ。今日、金曜日だし。何ならその次の日も。で、何か答えがみつかったら、一緒に学校行こう!」
「ちひろの家に迷惑かけない?」
「だいじょーぶ!」
とても力強い返事が来た。
「うち、お客様がたくさん来るから部屋はたくさんあるんだ。でもみおは私の部屋に泊まればいいし、ご飯も別に一人くらい増えても全然問題じゃないよ。お父様……じゃないお父さんも、お母さんも大丈夫って言うと思うし」
「でも、泊まりってなると、うちの母親がうるさいかも……」
「メモ置いておけばいいじゃん。行こっ!」
あの母親がどんなことをするのか分からないのが怖い。
「だめだよ。みおは今、家にいちゃ。だめ。大丈夫。うちのお母さんに頼んで、今日の夜にみおの家に電話するように頼んでおくから」
「それこそ、迷惑なんじゃ」
「いーの! 今のみおは、自分のことだけ考えて!」
(自分のことばかり考えている。だから自分がこんなにバカだって気がついているんだけど…………)
「『自分のことだけ考えて!』っていうのは、少しでもみおが幸せになれることを考えてね! って意味だから」
浮かない顔をしてたのだろうか、ちひろはまるで私の心を覗いているかのように伝えてくれた。
「わかった。ありがとね。ちひろ」
流石にこの格好では行けないので、一旦部屋に戻り私服に着替え、パジャマと着替えをボストンバッグに詰める。
持っていくものは最小限にするつもりで準備をしていたけど、その間も私は、この選択が正しいのかと迷ってしまっている。
(母親は何て言うだろう……)
あの母親のことだ。
腹を立てた結果、この叱責の対象が私にとどまらずに、ちひろに対して向かってしまうのではないかという可能性。
そして私は、そのことでちひろを傷つけてしまうことが、何よりも怖い。
ただそれでも、このまま部屋に籠っていても何も解決しないことはなんとなく分かっていた。
ここにいる理由はない。
もし私の選択が間違っていて何もかも失うことになったら、それはその時考えればいい。
少なくとも今だけは、こんなバカな私を心配してくれた友達を、これ以上裏切ることだけはしたくなかった。
そして、何があっても、私はちひろを傷つけるものと戦うことを決めた。
「よし、準備完了! あとは…………」
カバンの中に放置されていた電池の切れたスマホを充電し、今ディスプレイには23%という表示がでている。一旦はこれで十分だろう。
パスコードを入力して久しぶりにホーム画面を開く。
そこにはちひろの言うとおり大量の着信と、トークアプリにもたくさんの通知が来ていた。
一斉に既読の文字が着くが、それはちひろが本当に私を心配してくれていた証拠だった。
こんなに心配をかけていたということに改めて胸が締め付けられる。
ただそれ以上に、私はその全てが嬉しかった。
ちひろを待たせているので、全部のメッセージを読む時間はない。
ただ、最後に来ていたトークアプリのメッセージを見瞬間、また一筋の涙が頬を伝った。
『今、会いにいくから! 大丈夫だよ。待っててね』
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