ガラスのビルに世界は映る

朝川はやと

ガラスのビルに世界は映る

 いつもは降りない駅で降りた。水曜日午前九時十三分。

 昔から電話は嫌い。言葉がつかえて上手く話せない。だから、メールには本当に助けられてきた。嘘をついて休むなんて、非常識だと思っていた。卑怯者だと思っていた。でも私は今ここにいる。三時からのお客様は、たぶん熊原さんが引き継ぐだろう。私がいなくても、会社は回る。迷惑するのは熊原さん、ただ一人。静かで、優しくて、几帳面な人。ごめんなさい。

 

 地下鉄の駅から地上へ出る。五月の日差しはまだ、肌に優しい。平日のこの時間、この場所をどんな人が歩いているか、私は知らない。私の狭い視界、それが世界。きっと誰だって、そう。


 「水坂明希」

 社員証には硬い顔の女が写る。おでこを出して後ろで髪を結んでいる。一年と少しの時間が経っても、この顔のままずっといた。同期の女の子も男の子も、当たり前に仕事を覚え、仕事をこなし、上司と打ち解けた。けれど私はうまくやれない。業務が増えるとパニックになる。話しかけられても気の利いた言葉が返せない。必死にやってもスピードは遅い。そして毎晩、残業。同期は私の二倍の仕事を抱えて、残業している。

 「生産性」

 という言葉を聞くと、苦しくなる。息が吸いづらくなる。学生の頃から、何だって人よりできない。社会に出たらこうなることも、わかっていた。不器用なんて可愛い言葉じゃない。私は「使えない」。嫌でも思い出すのは、就活の記憶。履歴書、面接、筆記試験。沢山の会社に応募して、落ちて、落ちて、泣いて、落ちて、やっと今の会社に拾ってもらえた。嬉しかった。

 

 ふと気がつくと、街中の公園の前にいた。風が明るい緑を揺らす。広い花壇は黄色や赤やピンク色。噴水は光を反射しきらきらと白く眩い。木陰のベンチに腰掛ける。右手から、大きな犬を連れたスポーツウェアの女性。左手から、小さな犬を連れた初老の男性。互いを見つけた犬たちはしっぽを振って駆け寄り、じゃれ合い、互いの匂いを確かめ合う。

 向かいのベンチには、母親と五歳くらいの女の子。犬を指さし、母親に何かを伝える。母親が笑う。小さな手には、スケッチブックとクレヨンセット。大事そうに抱えている。何を描いているのだろう。犬、花、空、それとも童話のプリンセス。 

 「あきちゃんは、将来絵描きになるんやね」

 ずっと昔の祖父の声。私はじっと黙って絵を描く子だった。中学まで、いや、高校でも時間を見つけて描いていた。いつから描かなくなったのだろう。


 しばらくベンチに座っていた。親子も犬も飼い主も、いなくなった。時計台、十二時の鐘が鳴る。公園を出る。


 ガラスのビルには青い空が映る。白いビニール袋が風に舞い上がり、高く高く昇っていく。十階にも十五階にも届く。高く、高く。ガラスに映る世界には、空と雲とビニール袋。ふわふわ漂うクラゲみたい。雲はただ、そっと、ゆっくりと、海流のように動いていく。

 昼食を食べたら、スケッチブックといろんな色の鉛筆を買おう。

 そして海へ行こう。

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ガラスのビルに世界は映る 朝川はやと @asakawa2023

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