第二章 第一話
夢から覚めると千秋が俺の顔を覗いていた。ふわりとした毛先が顔を擽り、くすぐったく思った俺は千秋を払い除けた。
「嫌な夢だったの?」
すると千秋がいきなり核心を突く事を聞いて来た。千秋は俺の過去も知っているため、見栄を張らずに「……昔の夢」と短く答えた。
「そっか。辛かったね」
と、千秋は優しい眼差しを向けながら俺の頭を抱え込む。柔らかい感触に顔面が包まれて、息を吸うとふわりと甘い香りが鼻を通る。千秋の大きな胸と柔らかい声色は、聖母の様な安心感を覚えさせる。
ただ抱き締められているだけなのに、不思議と全身の力が抜けた。この包容力を直に感じている身としては、千秋は保育士が向いているのではないだろうか。
「……それだけか?」
「うん。それ以上聞いても何も答えてくれないでしょ?」
「それは、まあ……」
夢の内容について詳しく聞かれると思ったが、千秋はただ俺の髪を撫でるだけだった。千秋の髪とは違って滑らかさも無く、適当に洗っている分、かなり痛んでいると言える。
しかし千秋はこのボサボサの髪を、優しく、丁寧に撫でていた。
「大丈夫。私はずっとここにいるからね」
「……そうかよ」
何も言っていないのに、千秋は全てお見通しだったらしい。
何となく不貞腐れてしまい、その顔を見られたくなかった俺は柔らかい丘に埋まって隠れるのだった。
大学生活はよくも悪くも、順調に進んでいた。大学では高校時代と違ってサークルには属さずに、授業が終われば週に四日のアルバイトをこなすか、家で千秋と過ごすのがほとんどだった。
今日はバイトがある日だったので、さっさと帰ろかと思った時に「おっ、いたいた」とかつては毎日聞いていた、鬱陶しい友達の声が聞こえた。
「今日暇か? これから試合やるんだけど、メンバー足りなくてさ」
彼―――大和―――は、週に二回ほど、こうして野球を誘いに来るのだ。
「……いや、バイトがあるから」
「そっか! なら仕方ないな! 頑張れよ!」
「おう、そっちもな」
大和とは高校時代のチームメイトで、一番バッターの大和が塁に出て、大和を本塁に返して打点を挙げるっていうのが流れだった。出塁率4割を超える、不動の一番バッターは現在、大学で野球同好会を設立した。
楽しく野球をしているらしく、かつての出来事をしっている大和は気を使って俺の事を誘ってくれているのだろう。
何度断っても、こうして誘ってくれている。悪いとは思いながらも頷かないのは俺の心の弱さが原因だ。
十八時から二十二時まで、大学近辺にある書店でアルバイトをしている。個人経営の書店のため、客足はあまり無いが、その静かな雰囲気を気に入っているので良いのだ。
ほとんど品出しや棚の整理、店内の清掃をしてその日、本を買っていったのは十人だけだった。社割で安く買えるので俺も千秋の欲しがっていた漫画と、自分が読む様の小説を購入して帰宅した。
「ただいま」と言うと、リビングの方から慌ただしい足音が聞こえた。
「おかえりなさい、ごめんね。出るのちょっと遅くなっちゃった」
と言ってエプロンを前にかけて、おたまを片手に持った千秋が出迎えてくれた。
大学生のカップルなのに新婚みたいなやりとりをしてるなぁ、と
「ほい」
「あっ、新刊だ。ありがとね」
「自分の小説も買ってきたから」
「へえ。その人、また本出したんだ」
「知ってるのか?」
「もう。ちょっと前に一緒に読んだでしょ」
「……そうだっけ」
「ほんと、夕ちゃんって本の中身にしか興味ないよねぇ」
「ていうか、鍋から離れていていいのか?」
「ふぇ? あ、ああぁ!」
忘れている様なので、手に持っていたおたまを指で指して指摘すると慌ててキッチンの方に走って行った。
香ばしい香りが漂っているが、それが少しして焦げ臭くなったのを感じた。
結局、その晩に食卓に並んだのは焦げたステーキ肉のワイン煮だったが、少し付いている焦げが良いアクセントになったと思う。
「ほんと、優しいんだね。夕ちゃんは」
「何言ってるのかさっぱりだ」
「ふふっ。そういう事にしておいてあげるね」
たまには爛れていない綺麗な夜も必要なのだ。
二人の平穏な夕食は続いたーーーー。
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