爛れた海月

近藤一

第一章 第一話

 例えば不安になると過呼吸になって、爪を立てて「行かないで」と嘆く少女がいたとする。


 千秋は俺の背中に鋭い爪を突き立てて、両足を背中に絡めて固定する。喘ぎ声に似た悲鳴が胸の内から聞こえてくる。


 俺は優しく千秋を抱きしめて大丈夫だよ、どこにも行かないよと安心して貰える様に言葉をかける事しかできない。


 そう言うと安心したのか、ようやく爪を立てる事をやめて千秋は僕の首に手を廻し「お願い……」と甘く囁いた。


 千秋の願い通り、俺は激しく身体を動かした。背中がひりひりとして、赤い液体が皺だらけのシーツの上に滴り落ちた。


 いつもの事とは言え、この赤い模様はもう取れないだろう。シーツを買い替える金も馬鹿にはならない。そろそろ、犬が交尾する時のように手袋でも付けて貰おうか。


 いや、そんな事をお願いすれば千秋はまた発狂してしまう。どうする事も出来ないと悟った俺には、海月が干からびる程熱い夜を千秋に与える事しか出来なかった。




 数刻すればお互いに体力は尽きて、二人は足を絡めてカーテンの隙間から差し込む月光に照らされながらゆったりとした時間を過ごした。


「夕ちゃん、背中痛い? ごめんね、夕ちゃん。ごめんね」


 千秋は息切れをしながら何度も謝る。いつもの事だが、千秋と夜を過ごした後はこうなるのだ。行為中とは異なり、千秋に何も言わずにコンビニで買った一袋三百円のロックアイスを二個グラスに入れて、安いウイスキーと水道水を一対二で割ったものを一気に喉に流し込む。すぐに喉が焼ける様な感覚が襲ってきて、安売りしていたチョコレートを口の中に放り込んで中和した。


 もう一杯作ると、タバコに火を付けて吸った。青白い煙を上げながら燃えるたばこの火は、暗い海底に似た部屋に現れた灯だ。しばらくぼうっとしていると千秋から袖を引かれた。


「何?」と聞くと「明日、早いの?」と質問で返された。明日はバイトも無いため、大学の話をしているのだろう。「午前中で終わるよ」と言うと、千秋はえくぼを作ってはにかんだ。


 進学してから染めた明るい茶髪をくしゃっと撫でると、千秋は自分の頬を俺の手にこすりつけた。


 千秋の柔肌では女の子の手すら握った事が無かった、バット一筋だったこの無骨な掌では擦れて痛むはずだ。だと言うのに千秋は愛おしそうに何度も頬を擦り付ける。


 まだ中身が半分残っていたグラスを置いて、再び千秋の胸元に顔を埋めた。


大学に入ってから始まった爛れた日々は深海よりも暗く、沼の様に身動きが出来なくなる。言うなれば千秋は沼地を泳ぐ海月で、俺は千秋に絡めとられた哀れな渡り鳥だ。いや、もしかすると空へ羽ばたく事を諦めた俺もまた、この深い沼の中にいる事を望んでいたのかもしれない。

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