第29話 ヴァルトドラゴンとの遭遇


 ――確かに、予兆はあった。


 ドラゴンと遭遇する数分前。

 あれだけ悪臭と薄暗闇と異形のモンスターに覆われていた森が、ある場所を堺にふいにその姿を変えたのだ。


 木々は緑色を取り戻し、梢の隙間から陽光が差し込む。おそらく時間的な影響だろう。陽の光は柔らかく、夕焼けの色を帯びていた。

 息苦しさに口元の布をずらすと、口や鼻から清浄な空気が肺に飛び込んでくる。

 かつて『いせスト』で見たような、神秘的な森。


 刻哉とリコッタは、思わず何度もその場で深呼吸した。ただ空気を吸っているだけなのに、身体中の細胞が生き返るような感じがした。

 リコッタから見ても、そこは見慣れた森の姿だったのだろう。刻哉にはわからない異世界語をつぶやきながら、目尻で涙を拭っていた。

 もうすぐ拠点に到着するそうですよ――とフィステラが嬉しそうに話した。


 そこまでは、よかったのだ。


 川沿いから外れ、さあいよいよ目的地だと木々の間を抜けた直後、刻哉たちは巨大なドラゴンに睨まれたのである。


 外観と大きさは、アダマントドラゴンとよく似ている。

 刻哉が倒したソレの表皮が金属のようだったのに比べ、目の前のドラゴンは蛇のように軟らかそうな肌をしている。背中と翼を中心に、濃い緑色の苔に覆われていた。ところどころに、鉱石のような黄色い石が張り付いている。

 ドラゴンは大地に首を伏せた状態で刻哉たちをじっと睨んでいる。その大きな瞳は金色をしていた。


 刻哉は動画を思い出す。いせストが世に広まりだした頃。この森の奥地に棲息するドラゴンを、彼は画面越しに見たことがあった。

 確か名を――ヴァルトドラゴン。

 初期のプレイヤーたちを待ち受ける、ボス的存在。


 ――リコッタが耳と尻尾を立てた。後ろを勢いよく振り返る。

 いつの間にか、ヴァルトドラゴンがその長い尻尾を刻哉たちの背後に忍ばせ、退路を塞いでいたのだ。


 モンスターを避けて、避けて、避けた先で。

 圧倒的な存在に、行く手を遮られたのである。


「……そんな」


 フィステラがつぶやき、刻哉を見た。隣のリコッタも同じく鍛冶師の青年を見上げる。


 彼らは今、戦う手段を失っていた。

 モンスターの気を逸らす。一撃入れてすぐに離脱する。突発的な襲撃に対応する。ここに来るまでに、そうして少しずつ武器を消耗した結果、今、彼らの手には武器らしい武器は残っていなかった。

 いくら戦闘を回避しようとしても、大量の敵から完璧に隠れ通すことはできなかったのである。


 咄嗟にリコッタが地面を探り、投げつけられそうな石を拾い上げる。

 フィステラもまた近くの木から枝を折り取る。

 ふたりとも、表情には焦りと不安が色濃くにじんでいた。

 この巨大な偉容を誇るドラゴンに果たして通用するのか。手のひらに収まるような石が。片手で折れてしまうような小枝が。


「トキヤさん……」

「トキヤ」


 ふたりの声を聞いた刻哉は瞑目めいもくした。


 ずしん、と重い音がした。リコッタが肩を震わせる。

 刻哉たちの背後に回された尾が、リズムを取るように上げ下げされていた。ドラゴンにしてみれば何気ない動きだろうが、ちっぽけな人間たちからすれば、すぐ後ろでギロチンが動いているような感覚である。


 ヴァルトドラゴンは睨み続けている。


 ふいに、リコッタが刻哉の腕に抱きついた。思いっきり、彼の匂いを嗅ぐ。

 そして一言、何かをつぶやくと、拾った石を抱えて前に飛び出した。


「リコッタさん、ダメです!」


 フィステラが叫ぶ。

 獣人少女は自分の身を犠牲にして、刻哉たちを逃がそうとしたのだ。

 リコッタはただの石を投げつけようと振りかぶる。


 直後、ヴァルトドラゴンがゆっくりと口を開いた。

 樹一本、丸ごと噛み砕けそうな大きな口。口内にも鉱石らしき突起がある。あれに食われれば、飲み込まれる前に身体を貫かれて絶命するだろう。

 リコッタが恐怖に縛られ、動きを止めた。

 石を振りかぶったまま、その場に立ち尽くす。端から見てもわかるほど、リコッタの手は震えていた。


 その手を、後ろからつかむ者がいた。刻哉だった。


 我に返ったリコッタが必死に訴える。言葉はわからなくても、『ここから逃げろ』と伝えようとしていることは刻哉にも理解できた。

 少し考えて、刻哉は彼女の頭を撫でた。飼い猫にするように撫で続けると、ゆっくりとリコッタの耳と尻尾が下がっていく。彼女は諦めの表情に変わっていった。


 刻哉はちらりとドラゴンの口を見やり、それからリコッタの手を引いて数歩下がった。


 すると――ヴァルトドラゴンはゆっくりと口を閉じる。

 ドラゴンの金色の瞳を、刻哉はじーっと見つめた。


 フィステラが恐る恐る隣にやってくる。刻哉は言った。


「フィステラさん。君はドラゴンと会話できたりする?」

「た、試したこともありません」

「そっか」


 肩をすくめた刻哉は、あろうことかドラゴンから視線を外した。

 辺りを見回し、平地の向こうに一軒の小屋が建っているのを見つける。小屋を指差し、リコッタに話しかける。


「リコッタ。あれが君の言っていた拠点小屋かい?」

「――」


 身振りで、刻哉の言わんとしていることは理解したのだろう。

 獣人少女は目をまん丸に広げて刻哉を見上げ、やがてぎこちなくうなずいた。


 刻哉は小屋を観察する。

 損傷はなさそう。水車も備わっている。水路も無事。周囲は日当たりもよく、開けている。やろうと思えば畑も作れそうだ。


「良いところだね」


 満足げにつぶやいて、刻哉はリコッタを連れて小屋へと歩き出した。

 慌ててフィステラが後を追う。


「ト、トキヤさんっ……!」

「なに?」

「あの、龍は。龍は無視して大丈夫なんですか!?」

「んー」


 刻哉は振り返る。ヴァルトドラゴンはしっかりとこちらと目を合わせてきた。

 彼は言った。


「とりあえず、小屋で休もう。それが先だ」

「え? え、えええっ!?」


 大混乱するフィステラをよそに、刻哉は暢気に背伸びをする。


「相手に戦うつもりがあるなら、俺たちはもう死んでるよ」


 あっさりと言う。


 刻哉の頭には、いせスト動画の記憶があった。

 チュートリアルダンジョンのボス的存在だったヴァルトドラゴン。奴は、プレイヤーが攻撃しない限りその場を動こうとしなかった。


「それに、アダマントドラゴンのときと比べて怒った気配がなかったからさ。だったら、こちらのやりたいようにさせてもらった方がいいじゃないか」


 ――背後でヴァルトドラゴンが動く気配。

 ひっ、と息を呑む少女ふたり。

 振り返る刻哉。


 ヴァルトドラゴンは起き上がると、大地を揺らしながら一歩、二歩と刻哉たちに近づく。長い首をもたげて、こちらを見下ろしてきた。

 いつもは無表情な顔を、刻哉は少しだけ緩ませた。


「よろしくね。お隣さん」


 ふん、とヴァルトドラゴンが鼻で笑ったような気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る