第25話 嫌悪と反抗の理由


 ぱしゃん、と水音が立つ。

 リコッタを先頭に、川沿いを歩く刻哉たち。

 すでに周囲は木々で覆われ、歩ける道は限られている。靴は水を含んで重くなり、岩場を踏むたびにごぼんと鈍い音が鳴った。

 臭気と殺気と足音を打ち消すような、長閑のどかなせせらぎ。


 ――刻哉たちは、川をさかのぼって森を突っ切ることを選んでいた。

 リコッタの拠点を目指すのである。

 森から流れてくる水が澄んでいる――それが、刻哉の選択理由だった。


「リコッタさん」


 最後尾を行くフィステラが呼んだ。リコッタは周囲の警戒に忙しい。ただでさえ、森の臭気は予想以上の不快さなのだ。布を二重にして口鼻を覆っているが、ただれた空気はやすやすと体内に侵入してくる。

 これ以上、苛々いらいらを溜めたくない。


 再びフィステラが呼ぶ。引き続き無視していると、刻哉がリコッタの肩を軽く叩いてきた。獣人少女は肩をすくめた。

 口元を覆う布越しに、くぐもった声で返事をする。


「……なに? 大精霊様」

「少し、お話をしようかと思いまして。リコッタさんが使っていたという拠点は、どういう場所なのかと」

「大精霊様は、今のこの状況を理解してる?」


 布の下で歯を剥き出しにしながら詰問する。


「そこら中にモンスターの気配と臭いがする。ここは敵地のど真ん中なんだよ。危機感がなさすぎる」

「う……すみません。ただ、このような場所に構えた拠点がどんなものなのか、興味があって」


 フィステラがちらりと刻哉の背中を見る。

 その仕草で、リコッタは察した。おそらく、刻哉が興味を持ったのだ。彼が疑問を投げかける前に聞いておこうと思ったのだろう。

 ため息をつきながら、答える。


「別に。普通の小屋。水場が近くにあって、日当たりのいい場所もあったから、暮らそうと思えば暮らせるくらいの場所。ずっと前から、少しずつ道具とか保存食とか運び込んでた」

「そうなんですね」

「でも、森がこんな風になる前のことだから。小屋が無事である保証はまったくない」

「そ、そうなんです、ね……」

「うん。だから皆死ぬかも。拠点にたどり着けても、たどり着けなくても」


 あっさりとリコッタが言うものだから、フィステラはしばらく言葉を失った。

 ちらりと、獣人少女は振り返る。


「けど、わたしはそんなに怖くないよ。トキヤに出逢う前は、もうほとんど死んだも同然だったし。きっとトキヤも、死ぬこと自体はそんなに怖がってないよね」

「それは……。そう、かも、しれませんが」


 フィステラは再び刻哉の背中を見る。


 森の拠点へ向かおうと告げたとき。最初に森へと足を踏み入れたとき。そして今、このとき。

 彼の雰囲気は変わっていない。歩幅も一定。さすがに臭いは気になるのか、布きれを口元に当てて、静かに呼吸をするようにしている。

 驚くべき精神力だと、リコッタはとても好意的に見ていた。

 だが、大精霊様は違う印象を持っているらしい。


「本当に、トキヤさんは変わっています。日が経つごとに、どんどん外界人から離れているような」

「なに? トキヤを侮辱する?」

「違います。ただ、頼もしさよりも恐ろしさを感じるんです。私は」


 やっぱり侮辱ではないかと思っていると、フィステラは目を細めた。周囲を舞う蝶が、心なしか色をなくす。


「トキヤさんは、いつまた命を投げ出すような真似をするか。私はそれが不安で仕方ないのです」

「……」


 リコッタは前に向き直った。

 しゃくなことだが、それに関しては同感だとリコッタは思った。


 リコッタが惹かれた刻哉の瞳。その輝きは強くしなやかな意志を放っていたが、同時に、人として何か致命的なものを置き忘れているようにも思えた。確かに、そう感じた。


 けれど、それが何だというのか。


 こちらの世界の人間に、刻哉ほど『純粋な』瞳をした者はいないだろう。

 刻哉は決して死にたがりではない。少し前のリコッタのように、生きることに疲れているわけでもない。

 ただただ、死を怖れていないだけだ。

 きっと彼は、ぎりぎりまで抗う。恐怖や不安に惑わされず、たとえ力及ばないことがわかっても、最後の最後まで立ち向かうだろう。


 そうやって彼が死地に飛び込むというのなら、わたしが守ればいい。

 そのための力は、他ならぬ刻哉がくれたのだ。


 ――リコッタは歩幅を緩めると、刻哉の隣に並んだ。

 彼の腕をぎゅっと抱きしめる。


「……?」


 刻哉が不思議そうに首を傾げる。リコッタはもう一度、力を込めて腕を握った。


 フィステラが反対側に並ぶ。遠慮がちに彼の肩に手を置きながら、何事か話しかけていた。きっと、さっきまでの会話を翻訳して伝えているのだろう。


「そういえばリコッタさん」


 大精霊様が話題を変えた。


「リコッタさんは、どうしてクィンクノーチから離れなければいけなかったのですか?」

「それ、トキヤからの質問?」

「いえ。精霊として、私は知らなければいけないと思ったのです。あなたほどの方が、私たち精霊のせいで追放されたのなら、その理由を」


 生真面目な表情である。

 リコッタの視線が鋭くなった。


「大精霊様が知ってもどうしようもないよ」

「ですが」

「……わたし、。妹も、仲間たちも。だから追い出された。それだけ」

「洗……脳?」

「知らないの? 本当に?」


 眉間に深い皺が寄るのが抑えられない。


「街のほとんどの人たち、精霊様の言いなり。人形みたいなチーターも喜んで受け入れた。精霊様が来てから、皆が一気におかしくなった。だから、洗脳」

「……」

「わたしは、わたしたちは、抗った。抗って、あっけなくチーターにやられた」


 うなるように、つぶやく。


 刻哉の手がそっとリコッタの手に被せられた。そのときになって初めて、リコッタは食い込むほど強く彼の腕を握りしめていたと気づく。

 刻哉は、いつもと変わらぬ表情でリコッタを見つめていた。

 いくぶん落ち着いた声で、それでも黒い感情を消すことができずに、獣人少女は言った。


「だからわたしは、精霊が嫌い」


 せせらぎに三人は包み込まれる。


 ――不意に。

 リコッタが耳と尻尾を立てた。同時に刻哉たちを背後に庇う。

 突然のことにフィステラが狼狽うろたえた。


「リコッタさん!?」

「油断した」


 額から一気に噴き出してきた汗が、口元の布を湿らせる。

 臭気と殺気が、夜のとばりのように静かに周囲を侵食していく。濃さを増していく。


 ナイフもどきの柄を握り、リコッタは言った。


「囲まれてる。周り、全部」

 



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