第7話 チーター


 蝶の少女――フィステラの手を借りて、刻哉は上体を起こした。相変わらず右腕は動かない。

 フィステラと視線を合わせる。

 こうして何度も他人の顔を真正面から見つめるのはいつ以来だろう、と彼はふと思う。

 彼の人生において、『他人』は常に己と交わらない存在だった。避けられ、同時に避けて過ごしてきた。


 それが、相手の方から近づいてきたのだ。

「あなたに希望を見いだした」とまで言われる。


 だから、今更ながらに意識する。

 他人にはそうとわからないほど微かな変化だったが、彼にとっては非常に珍しいことに――刻哉は緊張し始めていた。


「それじゃあ、教えてくれ。フィステラ……さん」


 刻哉は言った。

 すると今度は、蝶の精霊少女の方が狼狽うろたえた。


「あ、あなたに『さん』付けされると、何だか調子が狂います」

「会って間もない女の子を呼び捨てにできるほど、俺は人間ができていないんだ」

「お、女の子……ですか。本当に、あなたはヘンな人です」


 フィステラが視線を逸らす。彼女の周囲に舞う光の蝶が、不規則に明滅しながらオロオロしていた。

 刻哉は本気で理解できずにぽかんとする。


 脅威を退けた直後だというのに、ふたりの間には微妙な空気が流れた。


 フィステラが自分の頬を軽く張る。すると蝶の動きにも機敏さが戻った。どうやら、彼女の感情と連動しているらしい。


「もう一度、その武器を復活させたい――トキヤさんの質問に答える前に、まず、どうしても知っておいていただきたいことがあります」


 フィステラが視線を壁に向ける。刻哉もそちらを見た。

 アダマントドラゴンが前脚でえぐり、ゆめKoが無残な姿をさらした、あの場所だ。


「トキヤさんは、『チーター』という言葉をご存じですか?」

「……」


 彼は返事に詰まった。

 動物なら、哺乳綱食肉目ネコ科チーター属の最速哺乳類。

 オンラインゲームなら、不正行為や改竄かいざんを行う人間のこと。


「……どちらも興味ないな」


 フィステラの周囲を舞う蝶が、不安そうな薄青に染まる。そんな反応は初めてだと表情が語っていた。


「もう少し別の反応を期待していたのですが……やっぱりトキヤさんは他の人と違ってやりにくいです」

「だったらもったいつけず、先に俺の質問に答えてもらえるか?」

「すみません。でも、本当に大事な話なので、聞いてください。お願いします」


 フィステラの視線が、再び壁に向く。


『チーター』とは、トキヤさんのような外の世界の人々が変質した方たちをいいます。彼らはとても人形的な容姿をしていて、言葉を発することはありません。自由に動き回りますが、自我があるわけではありません」


 刻哉の脳裏に、無残にたおれた『ゆめKo』の姿が蘇る。

 と、刻哉自身のリアルな日常生活が繋がらない。


 フィステラの口調は速い。これだけは絶対説明しないといけないと気負っているのがありありと伝わる。


 刻哉は左手で顔を拭い、「ちょっと待ってくれ」と言った。まだか、まだかとそわそわする蝶の少女に、彼は言った。


「俺の常識と違いすぎる。頼む。もう少しゆっくりと一つひとつ教えてくれ」

「え? ですが他の人はもっと早く――」

「他人と比べないでくれ。俺は君の話を聞く。真剣に、最後まで。だから、頼む。俺が理解できるまで、根気強く付き合ってくれないか」


 言いながら、刻哉はここまで必死になっている自分を意外に思った。

 フィステラもまた、目を瞬かせる。


「やっぱりトキヤさんは他の人と違いますね。いえ……違って当たり前なのかもしれません。だから、私は」


 そこで一度口をつぐんだ彼女は、居住まいを正して刻哉と相対した。


 ――蝶をまとう精霊少女フィステラの説明は、とても誠実で、そして常軌を逸していた。


 彼女が最も伝えたかったこと――『チーター』。

 それは、大噴禍を通ってこの異世界に落ちてきた現代人が、ゲームやアニメのキャラクターのようにデフォルメされてしまった存在をいう。


 現代人がチーターになるきっかけ。それは、『死』だ。


 通常、異世界で死亡した現代人は、元の世界と同じようにただむくろさらすだけである。

 だが、フィステラのような精霊が現代人の死体へ介入することで、ソレは個別の意志を持たない人形として蘇る。彼らはまるでプログラムされたNPCのように、各地を旅してモンスターを狩っていく。

 それがチーター。


「フィステラさん。それはおかしい。俺はいせスト――外の世界の映像で、『チーター』たちの動きを見てきた。映像のとおりなら、とても彼らが意志を喪失しているとは思えない」

「ごめんなさい。詳しい仕組みは、私にもわかりません。ですが間違いなく、チーターはあなたがたの世界から来た人で、自らの人格を失っています。あんな人間は存在しません」


 有り体に言えば――刻哉たちは精霊たちの駒となるべくこの世界に招かれたことになる。

 にわかには信じがたいことだった。


「私は、それを止めたい。何の罪もない人々が、元の姿形と意志を失い、ただ世界を彷徨さまようだけの存在になるなんて、あってはならないと思いました」


 顔を上げた彼女の目には、薄らと涙が光っている。


「しかも、トキヤさんの話では、外の世界ではその様子が面白おかしく映し出され、まるで見世物のように消費されているというではないですか。こんなの……ひどすぎます」

「確かに、ね」


 刻哉は顎に手を当て、考えた。


 ――刻哉はここまでの説明で、フィステラが外の世界――刻哉がいた元の世界――のことを詳しく知らないのだと悟った。彼女はいせストの存在も、ゲームの存在も、二次元的なキャラクターの存在も知らなかった。

 だから何度も、何度も問答を繰り返すことで、ようやく刻哉はフィステラとイメージを共有する。


 いせストはわずか三ヶ月で大人気コンテンツになった。現代では何の力もない人々が、魔法や超常の力を使い、巨大なモンスターを次々と討ち滅ぼす姿に、皆が熱狂したからだ。

 しかし、よくよく考えてみれば、モンスター討伐以外の時間をどう過ごしているかがいせスト動画にあがることは、めったにない。


 退


 大噴禍の渦に落ちる前。

 刻哉へ「逃げろ」と忠告した大型トラックの運転手は、正しかった。



『異世界に行けば最後、ゴミどもに笑われオモチャにされる。それだけじゃねえ。てめえがてめえでなくなるぞ!』



 あの運転手がどうしてそう思ったかはわからない。もしかしたら、身近な人物がいせスト動画に映り込んでいたのを目にしたのかもしれない。

 いずれにせよ、この異世界では下手をすれば『刻哉が刻哉でなくなる』。

 ゆめKo――桜乃さくらの詞蘭しいらの惨状が、その事実を否応なく突きつける。


 同時に。

 フィステラがなぜ、こうまで真剣に、緊張してチーターの話をしようとしたのか刻哉は理解した。

 自分はあなたたちを駒として扱う極悪人の一味です――そう告白するに等しいのだから。


 刻哉は不快に思わなかった。むしろ好ましいとさえ思った。

 彼にとって、チーターなどあまり興味関心はない。駒のような人生なんて、元の世界と比べてもさして変わりないのだ。

 刻哉にとっては、何も考えずに記号的な生き方ができる分、むしろ楽だとさえ思えてしまう。

 この異世界に来る直前までの刻哉であれば、自ら進んで駒になろうとしたかもしれない。


 まっすぐにこちらを見つめてくるフィステラに、刻哉は言った。


「君は真面目な精霊なんだね。フィステラさん」

「な……!? わ……むぐ……」

「なにか言いたいなら、待つよ。待つのは得意だ。それに君は俺の願いを聞いて、ちゃんと最後まで話に付き合ってくれた。お互い無知なところがあったから、大変だったけど」

「……あなたはどうしてそう、私の精神をえぐるような台詞が言えるんですか」


 恨みがましい目で睨まれ、刻哉はちょっと笑った。

 笑った自分に驚く。

 今の気持ちを表現する言葉を、刻哉は持っていなかった。


 フィステラが目尻を拭う。ひととおり喋って気が楽になったのか、少し打ち解けた表情に変わっている。


「本当にトキヤさんは不思議な方です。以前、この話をした方は私たち精霊をなじりました。当然です。生命と尊厳を冒涜されて、いい気分になる者はこちらの世界にだっていません。なのにあなたときたら……私のことを、まさか真面目と表現するなんて」

「俺の常識では、自分に不都合な真実を真摯に話そうとする奴は真面目だ。元の世界じゃついぞ会ったことがないけれど」

「そうなのですか?」

「常識的で真面目な人生を送ってこなかったからね」

「……ぷっ」

「アダマントドラゴンの口に飛び込むような人間が、常識的なはずがない。だろう?」

「ふふっ。そうですね」


 ひとしきり笑った後、フィステラはうなずいた。


「わかりました。では非常識なトキヤさんのために、質問にお答えます。もう一度、あの武器を復活させたい。そのための方法を、お伝えしましょう」


 刻哉は目を見開いた。

 


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