新生活2

 戦時下であるから仕方がない。気になる事はもう一つ、当たり前のように読んでみたが、図書館に置かれていた新聞は全て紙が使われており活版印刷である。

 都市部では既に紙が普及しつつあった。シルクロードに該当する交易路から輸入されているわけだ。時代は進んでいる。確実に。銃を開発するのであれば急がなくてはならない。早くしないと先駆者が出てきてしまう。

だが先述の通り、目標は薄れつつあった。保身のためなら他にいくらでも道があると思っていた。


 読み終わった新聞を元の場所へと戻し、結局俺は市街に出た。広告に出ていたカフェが気になったからだ。こんな風に外に出歩く余裕があるあたり、今にして思えば実に楽天的だ。


 スマートフォンがないのは不便だったが都市の構造は分かりやすく案内板も立っていたため迷子になる事なく到着。いい金額のするコーヒーを頼み周りを観察してみる。あまり気にしていなかったが、洒落たお召し物を着ている人間が多い。そこそこ上等な服を用意してきたのに浮いている気がした。



「君、学生さん?」



 恥ずかしさに肩を縮めていると、若い男に声をかけられた。見るからに分不相応な、高級な衣装と装飾で着飾っていて、下品だった。



「はい、明日から神学校へ」


「なんだ、エリートじゃないか。凄いんだね」


「ありがとうございます」


「うん、嫌味もないし下手な謙遜もない。気持ちがいい奴だ。よければ少し話さないかい」


「はぁ……」



 そう言って強引に相席してきた男はヴィルヘルム・フィッシャーと名乗る売れない画家だった。テーブルを挟んで対面となってから、彼は頻りに自作品の素晴らしさと、それを理解しない社会に対して不満を述べ「君もそう思うだろう」と同調を求めてくる典型的なタイプだった。皆が皆そうだというつもりはないが、社会に認められないというのは即ち、能力の不足なのではないか。どうもこういう人種は自身の能力のなさを喧伝しているように見えて恥ずかしくなる。売れないなら売れないで「好きな物を描いているからいいんだ」くらいの気概が身に付かないものか。いやしかし、人に観てもらうために描いているのであればそれも矛盾している。まぁクリエイターについて何が正しいのかは判断できないが、どの世界、どの時代にも、こうした人間はいるものだ。




「ところで君はサロンには行かないのかい」


「サロン」


「そうさ。芸術家や文学者なんかが集まる場だよ。まぁ、だいたいは紹介がないと参加できないんだけれどもね」


「ふぅん」


「気になるかい?」


「少しは」


「そうだろう! 僕は顔が広くってね。幾つも知っているんだ。尊敬してくれて構わないよ。なにせ、普通の人は中々難しいからね、サロンに参加するのは」


「そうなんですね」


「気になるだろう」


「はぁ……」



 俺はフィッシャーが何を求めているのか理解した。サロンに紹介してやるから見返りをよこせと言っているのだ。

 実はこれ、よくある手口で、ちょっと顔の効く人間が「サロンを紹介してやる」といって少額をちょろまかすという事案である。特にこの時期、俺のようなお上り学生はカモにされやすい。例に違わずまんまと歯牙にかかったというわけだ。また、中には入会金や準備金などが必要と嘯いて多額の金を騙し取る輩もいるらしく、そこまでいくともはや詐欺であり、可愛さの欠片もないわけだが、幸いな事にこのフィッシャー、そこまでの度胸もなく悪人でもなく、ただのボンクラ画家だった。




「そうだね。ここのコーヒーをより美味しくしてくれたら君にピッタリなサロンを紹介してあげられるんだけれど、どうだい」


「どうしたら美味しくなるんです?」


「簡単さ。要は気持ちの問題だよ。ここに僕の絵がある。小さな紙に描かれたラフスケッチだけれど、もしこの絵が売れたら、僕は天にも昇る気持ちになって、この世界の全てがより素晴らしく感じられるだろうね。特に、ここのコーヒーは美味くなるよ」


「なるほど、この絵をね。ところで、パースおかしくない?」


「ナンセンス。現実に囚われていては芸術が死ぬ。僕は僕の視点で世界を観ているのさ。現実的な目など必要ない」


「なるほど。僕は絵は分からないけど、君のその価値観には感銘を受けた。買おう。この絵。幾らだい」


「十メルク」


「高いな。ザクセン男爵の戦災支援金額が六千メルクなんだ。六ぺフィンくらいが妥当じゃないか」


「馬鹿言っちゃいけない。ここのコーヒーが十二ぺフィンなんだ。その半分って事はないだろう」


「だったら二十ぺフィンならどうだい。コーヒーに加えて、パンも買えるぜ」


「僕の絵はさらにケーキと果実酒と、それから女給の接吻がついても五日は通えるくらいの価値はある。五メルクだ」


「おいおい、いきなり提示金額の半値になったぞ。いいのか」


「君は面白いから特別さ」


「分かった。三メルクで買おう」


「五メルク。それ以上は譲れない」


「こっちは学生なんだ。そんな高額、ほいほい出せないよ。それに、さっき半額になったんだ。四割減くらいわけないだろう」


「駄目だね。五メルク」


「そうか。じゃ、金の代わりにいい提案をしよう。実は僕、有力貴族とちょっとしたコネがあってね。この絵を買ったら、その貴族に譲って屋敷に飾ってもらえるよう頼んでみる。すると、そこに訪れた人が君の絵を観るわけだ。いい宣伝になるとは思わないか? 場合によっては、十メルクなんて目じゃない価値になると思うけれど」


「君が貴族と知り合いだという根拠は?」


「明日から神学校の生徒だと言っただろう。あそこにどういう人間がいるのか、知らないって事はないはずだ」


「君が本当に神学校の生徒だという証拠を見せてくれ」


「そんなものはない。けれど、僕がこの場でこの絵を買わなかったら君は結局何も得る事ができず、コーヒー代も自分で払わなくちゃいけない。時間も浪費しているし、今売っておいた方がいいんじゃないかな。僕を信じて」


「まったく、とんでもない人間に声をかけてしまった。僕も見る目がない……分かった、三メルクで売ろう」


「どうも、それじゃあ、早速サロンを紹介してほしい。学術系の話ができるところがいいな」


「しっかりしてるね。まぁいい。それよりも君、途中から敬語じゃなくなっていたぞ。僕の方が歳上なんだから、敬えよな」


「善処するよ、ヘル・フィッシャー。ところで絵の代金、二メルクだったかな」


「三メルクだ!」



 騒がしい中、俺は三メルクも払って落書きのような絵を買った。もちろんこれは慈善活動ではない。サロンに入って、今後仲良くしておいた方がいい人間がいないか品定めするためである。


 ちなみにであるが三メルクはだいたい六千円程度である。子供にとっては大金だ。



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