試験1

 普段過ごしているとちっとも進んでいる感覚がないのに、振り返ってみると随分遠くに来たものだと実感するのが時間である。


 早朝。二時間程度の睡眠にも慣れてしまって気持ちよく起床。太陽が上がりきらない時間に結露した窓を拭いて覗く薄明りの街並み。雲のない快晴は、目覚めの良さもあって爽快であった。

 しかしそれはこれから始まる緊張の前触である。俺の経験上、大きなイベントの前は不自然にリラックスした状態になる事が多い。例えば取引先との打ち合わせや重役参加の社内ミーティングなど。そういう日は起床して家を出るまでは何故か非常に安定した精神状態なのである。きっと、大きな負荷から逃避するための分泌物が脳から排出されているのだろう。そうして本番では下手を踏むのだ。そんな事が何度もあった。俺の人生は嫌な記憶しかない。




「おはようオリバー。よく眠れた?」



 後ろから声が聞こえ振り返る。見ると、母親役の人間がベッドから上座を起こしていた。



「うん、よく寝たよ」


「嘘ばっかり。貴方、また遅くまで勉強していたでしょ。試験当日くらい、早く寝ればよかったのに」


「ギリギリまでやれる事はやっておきたいんだ。それに、いつも通りじゃないと落ち着かなくて」



 この日は試験当日だった。そう、神学校の入学試験のために、俺は母親役の人間とシュトルトガルドに来ていたのだ。本当は父親役の人間が付き添うはずだったが仕事の都合のため断念。母子で仲良く馬車に揺られて、宿に泊まっているというわけである。二人部屋なのは路銀という名の観光資金の節約のためであり、母親役の人間は三泊四日の都会旅行を大いに楽しんでいた。田舎集落でずっと暮らしていた人間が初めて大都市に出てきたのだ。インフラから文化、構造、社会構造そのものまで異なり、同じ国にいながらさながら異文化の営みである。好奇心が働くのも無理はない。目的は俺の受験であるにもかかわらず気前よく羽目を外していたが、寛大な心で受け入れてやっていた。母親役の人間はまだ三十代。ろくに遊びもしらず、儀式的に結婚して子供を産み集落で過ごしてきたのだ。多少の茶目っ気は大目に見てやっても問題ないだろう。



「今日、試験が終わったらご馳走を食べましょう。昨日仲良くなった奥様に、美味しいお店を教えてもらったの。有名なレストランなんですって」


「別に構わないけれど、金持ちを相手にするような店ならいかない方がいいよ。想像以上の金額が取られるし、ドレスコードもあるから門前払いを喰らうなんて事もある。もし入れても田舎臭い衣服と仕草が浮いてしまって惨めな気持ちになるだけだよ。それだったら味も量もある大衆食堂で下世話な酔っ払い共の相手をしていた方が余程いい」


「まぁオリバー。そんな捻くれたことを言っちゃ駄目よ。それに、そんな高級なお店じゃないんですから。お値段もしっかり聞いてきたし、服装も普段着ているものでいいんですって」


「どうだか……よく知りもしない人間の言う事なんて信用できないよ。自分で見たわけでもないし」


「それをいったら貴方だって実際にそのレストランへ行った事ないでしょう」


「それはそうだけど……」


「オリバー。貴方は凄く頭が良くて、そのうえ努力家だけれど、人生は知識じゃ測れない事もあるって事を覚えておきなさい」


「……」



 親というのは時折知ったような事を言ってくるものだ。自分だって大した人間でもないくせに、自分の子供だからと、まるで預言者にでもなったつもりで説教をしてくる。

 しかしこの女の人生の中で得た哲学なのだろうから、尊重して「分かった」と頷いてやった。反対意見を口にして口論となっても面白くないし意味がない。親というのはいつまでたっても親面をしたくなるものだから、子供として接してやろうという心遣いだ。神学校へ行けばどうせ離れる事となる。その間くらいは親子のふりをするのもやぶさかではない。



「オリバー。貴方は賢いから大丈夫よ。これからまだまだ学んでいって、お勉強以外の事も分かるようになっていくから」




 案の定気分を良くした母親は何か無益な話を延々と繰り返していった。それを聞き流し生返事をしながら、俺は外行の支度を済ませた。




「それじゃあ俺は神学校へ行ってくるから、あまり遊び過ぎないようにね」


「そんなに心配しなくっても大丈夫。今日は広場に行って、カフェでお茶をしてから演劇を観て帰ってくるの。都会って素敵ねオリバー」



 ものの一日ですっかり溶け込んでしまった母親役の人間を見ると、先程言っていたレストランについても本当に良心的な値段設定で貴賎関係なく利用できる店のような気がしてきた。女の適応力は早いものだ。



「……ここに住む! なんて言わないでくれよ」


「ベルトンがもっと有名な大工さんになって、貴族の方からお仕事をいただけるようになれば、それもいいかもね」


「そう」



 母親役の人間は弁えているようだった。子供の前で本音を言わなかっただけかもしれないが。まぁ、どちらでもいい。



「行ってくるよ」



 雑談も終わり、俺は帽子を被って宿を出た。シュトルトガルドの道路は硬く、コツコツと乾燥した音が冬の空気に混じって高く響いた。朝の心地よさは既になく、肌と筋肉が引き締まっていく感覚があった。


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