神学校へ8

「久しぶりヘンリエッタ。僕の事を覚えておいでかい」



 ハルトナーはズィーボルト一家全員と知り合いのようだった。考えてもみれば彼との縁によりズィーボルトとその妻子がここにやって来たわけなのだから当然ではある



「薄っすらとは。けれどハルトナー様。貴方とお会いしたのはもう随分と前の事でしょう。その時私なんてまだ六つだったんですから、何をお話ししていたのかだってあやふやで、初めましての方がしっくりときます」


「それは悲しい。僕は君と一緒に作った熊のぬいぐるみを大事に持っているというのに」


「そういえばそんな事もございましたね。私も部屋に飾ってあります。持ってきてはいませんが」


「持ってきたらよかったじゃないか」


「荷物になりますし、貴方と作ったという事も忘れておりましたので」


「なるほど。それじゃあ、君と過ごす今日からの僅かな時間の中で、忘れられない思い出を育むとしよう」


「貴方の日記にはそう書かれるかもしれませんね」


「嫌味な事を言うね君は。まぁいいさ。素直じゃないのは昔もそうだった。それより、そちらの彼女……アデライデさんを紹介いただけないかい」


「目の間にいるのだから、私を介さずともご自分でご挨拶されてはいかがですか?」


「それもそうだ……お初にお目にかかりますザクセン嬢。僕はヘルムート・ハルトナー」


「初めましてハルトナー様」


「ザクセン男爵の事は伺っております。慈善活動に尽力しておられる立派なお方だと」


「恐れ入ります」


「もしよろしければ、男爵についてお話をお聞かせいただきたく。私も将来、弱者救済のために働きたいもので」


「勿論でございます。しかし一つだけよろしいでしょうか」


「なんでございましょう」


「父は決して、弱者救済のために事を行っているのではございません」


「しかし、貧困層への援助や失業者対策に積極的だと……」


「その通りでございます。しかし、お金がない方やお仕事がない方を弱者と決めつけてしまうのは、失礼ながら貴族の悪い癖でございます。彼らが苦境に立たされている原因は弱いからじゃない。ただ、運や巡り合わせが悪かっただけなのです。多くの貴族は自分に力があると信じて疑わず強者のように立ち振る舞っておりますが、お金や屋敷を取り上げられたら何もできずに冷たくなっていく事でしょう。ハルトナー様が先程“弱者”と表現された方々は、そういった環境で日々逞しく生きているのです。彼らは決して弱くない。ただ、機会に恵まれなかっただけ。父が行っているのは、そういう不運に見舞われた方の再起を促す事なのです」



 アデライデのこの思想はもっともらしく聞こえるが、欺瞞に満ちた詭弁である。彼女の言うように、タイミングやチャンスに恵まれず底辺に落ちぶれたという事象もあるだろうが、それでも社会でまっとうに生きていけない人間は弱者ではないか。強者であれば、環境の中で適応し独力で生きていけるのだ。第三者の力に依存せねばならない状況などには陥らないだろう。

 俺のこの論法は適者生存そのものである。当該の概念においては環境に適応できる個体が最終的に繁栄するのであり、強弱は無関係だと述べられているが、そもそも環境適応できる存在は強者ではないかと思う。もっともこれは定義の話であり言葉遊びであり、屁理屈に片足を踏み入れたものである。本質的ではない。





「なるほど。無知故に失礼な事を申し上げました。許していただけると」


「いえ、こちらこそ初対面の方に申し訳ございません。父の受け売りを知ったように語ってしまって、お恥ずかしい限りでございます」




 ハルトナーとアデライデはとても子供とは思えない、絶妙な距離感を保っていた。異世界だからか、それとも教育の賜物か、人としてのステージが俺とまったく違っていて、感心と同時に自分を恥じ入る。俺がこの歳の頃なんてまるで野生児のように生きていた。言葉を解する猿といっても過言ではない。同じ子供というカテゴリでここまで差が出るのかという現実を突きつけられると、途端に俺という存在に人間的な価値がないように感じられ、酷く憂鬱な気持ちとなった。恐らくであるがこの時、俯いて暗い顔をしていただろう。もしかしたら、涙すら浮かべていたかもしれない。



「お話しは一旦それくらいでよろしいでしょうか。いつまでも庭先で立っているのも飽きてきました」



 ヘンリエッタがそう言ったのは俺の表情が曇っていのに気が付いたからかもしれないし、特にそういった思いやりはなく、言葉通り立っているのに飽きたからかもしれない。

 前者であった場合、別に俺に気遣っているからというわけではなかっただろう。これは徐々に分かっていった事なのだが、ヘンリエッタは性格的に陰鬱が嫌いなのだ。暗く悲しい物語は彼女にとって価値がない。どのような辛い現実であっても、決して悲観を許容しない人間なのである。




「そうだったね。荷物はどこだい? 搬入を手伝うよ」


「結構。従者がやってくれますし、そもそも伯爵家の人間が雑用など引き受けるものじゃございませんよ、ハルトナー様」


「そうかい。じゃあ、また後でお邪魔するとするよ」


「何を仰っているのですかハルトナー様。貴方と、それからロルフ様は私とアデライデにこの辺りの案内をしなければなりません。だってそうでしょう。私達、ここにどんなものがあって、どういう風に暮らしていけばいいのか分からないんですもの。ねぇ、アデライデ」




 アデライデが小さく頷く。彼女としても、都会とは正反対の暮らしぶりに好奇心をそそられたようだった。高価なドレスを着た女が蛮族に少しの文化的要素を取り入れた人間達の住む集落を歩けばチンドン屋と同じ目で見られるのではないかという懸念が浮かんだが、俺には関係のない事なので、どうでもよかった。




「分かった。じゃあ、僕達はしばらく待っているから、二人は準備をしてくるといい」


「そうさせていただきます。行きましょう、アデライデ」


「はい、ヘンリエッタ」




 ズィーボルトの屋敷に入っていく二人。その優雅な足の運び方は、田舎の泥道に似つかわしくなく、一種のコメディのような不格好さを醸し出していた、



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