「こい」恋、濃い、来いって
鳥野空
第1話 通り過ぎる彼
退屈していた。
私たちはいつも、休憩時間に他愛もない話をする。
その日も私の机の前には、中学の仲のいい数人の友達がいた。
きっとつまらなそうな顔をしていたんだろう、「どうかした?」と1人の男の子が心配そうな顔をして声をかけてきた。
彼は中学生らしい、幼い顔をしていた。
「ううん、大丈夫。ちょっとトイレ行ってくるね」
そう言って私は廊下に出て、ため息をついた。
原因は、わかってる。
あの時、彼はくれた。人生で初めて味わったあの、濃い1週間という、恋の時間を。
私はあの時に戻りたい。ううん、彼に会いに行きたい。
ただいまー。
2階の自分の部屋で勉強していると、お父さんが帰ってきた声がする。時計を見ると18時になっていた、いつもよりだいぶ早い。
そろそろ夕食の手伝いをしないと、と階段をおりてキッチンに向かう。
「お帰りなさい」
お父さんは机の上で荷物を整理しながら私の顔を見て、
「ただいま。どうだ静香、学校は?」
「うん、テストの点はいい感じだったよ。ただね、みんな最後の大会のためとか、塾だとか忙しくてさ、放課後もみんなと一緒に帰れないんだ」
「そうか、みんなも大変だな。英語の勉強はどうなんだ?」
「うーん、ぼちぼち、かな。やっぱり1人で先生もつけずに学んでいくのは大変だね。わかんないところあっても聞けないしさ」
「そうか、まぁ焦ることじゃない。ゆっくりやればいいさ、静香なら大丈夫」にっこり笑ってそう言ってくれる。
自分の夢を語った時から父は背中を押してくれていた。
それが嬉しくて「ありがとう」と笑顔で答えると、お父さんはお母さんのほうを向いて、
「涼子どうだ、静香の春休みは2週間後だろ、その時に別荘に行くっていうのは?」と聞いた。
キッチンカウンターでシチューをかき混ぜながら、
「あら、いいですね。という事はお仕事は落ち着いたんですね? 私はもちろんいいですけど、静香はどうなの?」と聞いてくる。
「うん、私も行きたいよ。最近煮詰まってるから気分変えたくって」
ちょうど私もどこか遠くへ行きたかった。みんなから取り残されたような気持ちも、自分の夢のための勉強も、自分が思っているほど進まなくて焦っている気持ちもあった、どこか遠くに行って吹き飛ばしたかった。
お父さんはネクタイを緩めながら嬉しそうに、
「よし、決まりだな。みんなでリフレッシュだ」
こうして私たちは行くことになった。さんさんと光り輝く街並みと、丘の上から望む美しい海。
あの、鎌倉へ。
久しぶりにお父さんの運転する車に乗った。白いピカピカな車は坂道を登っていく。白く輝く家々を眺めながら、心はウキウキしていた。
色とりどりのレンガが鮮やかな歩道の石畳。統一された、塀の白さや黒い門扉。
青い空をバックに、街路樹の緑は春の訪れを喜ぶように揺れる。
流れる風景を楽しんでいると、ふと、1人の青年が本を右手に持って歩いていく姿が見えた。
少し足を庇うように歩いている彼の目線は、自分の歩くほうをじっと見つめて、もどかしさを我慢しているように見えた。
綺麗な顔。
横を通り過ぎる一瞬でもわかる、彼の端正な横顔。
青いシャツに黒いチノパンをはいた彼を、通り過ぎても顔ごと追ってしまっていた。
やがて車は丘を越えて、坂道を少し下ったところにある私たちの別荘へ。
1階が車庫、2階と3階が私たちがこれから1週間過ごすところだ。
車を車庫に停め、その横にある門扉を開けて階段を上がっていく。上がりきると芝生が目に飛び込んでくる。あぁ、最高。思わず1人でぎゅっと目をつぶってはにかんでしまう。
左手にはウッドデッキ、右手にはプールが綺麗な水色をしていた。本を読んでもいいな、プールにパシャパシャと足をつけるのも気持ちいいだろうな。うきうき。
家のドアを開けて、駆け足で海を望む大きな窓のカーテンを開ける。
「わあ、綺麗」
「今日もいい天気ね、私たちの家もいつもこんな綺麗だといいんだけど」
お母さんは買い出しをしてきた食べ物の袋を机に置きながら、にこやかにそう言った。
玄関で重そうに荷物を置く父を見て、
「お父さん、もう荷物はない?」
「あぁ、もう大丈夫だよ。静香、自分の部屋の窓を開けて空気を入れ替えてきなさい」とそう言った。
はい、と返事をして階段を上がっていく。
ベットと本棚、カーペットの上には机とソファが置いてある。
散らかっていない部屋が気持ちいい。
窓を開けて、久しぶりに出会った本を眺めていると、窓の外に先ほどの青年が通り過ぎるところだった。
高校生くらいかな、このあたりに住んでいるんだろうか。
もしかしたら、どこかで会えるかな。そんな期待に胸がドキンとして、つい髪の毛をいじってしまう。
階段を降りてリビングに行くと、お父さんはソファでパソコンに向かっている。
お母さんはコーヒーを用意していたので、私の分もあるのか聞いてみた。
「あら、静香も飲むの?」
「うん、でも牛乳入れてカフェラテにしたいな」
「いいわよ、作ってあげる。でも、コーヒーに牛乳を入れたのは、カフェオレよ」と人差し指を立てながら訂正された。
お父さんも遠くの方でクスッと口元を隠しながら笑っている。
赤い顔でふくれっ面をしながら、
「もうっ、いいでしょ! それよりお父さん、今日はこれから何をするの?」と恥ずかしくてまくしたてる。
お父さんは咳払いをしながら、
「そうだな、とりあえずお腹も空いたし、せっかくだからゆっくりしたらどこか食事にでも行こうか」
「えっ、いいの! やったぁ」と小さく拍手をしながら飛び跳ねる。彼女の長い髪もぴょん、ぴょんと小さく跳ねる。
どこにするの?と聞くと、お父さんには行きたいお店があるそうだ。
きっとオシャレなお店なんだろうな、とその時の私はのんきに想像していた。そのお店での出会いは、私をまるで洗濯機の中の服のように、ゴロンゴロンとかき回すとはいざ知らず。
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