玄人をたすけたもの

「ちょっと、君、仕事の邪魔だから立って」


 久々の発作に耐えていた彼に対し、容赦ない声が掛けられた。その上彼は地面についている尻の当たりをつま先で蹴られたそうだ。

 高い頬骨に彫の深い顔立ちの田口鑑識官に蹴られたいと思う変態は多いと思うが、俺を含めて玄人も蹴られたくない少数派である。元々打たれ弱く、以前に田口に虐められた経験がある玄人は、彼女の行為どころか存在に脅え、そのために完全に発作で体が固まってしまった。


「子供じゃないんだから一人で帰れるでしょう。さぁ、早く一般人は出て行って。あんたさぁ、仮病でしょう。本当の鬱の子ってそんなんじゃないからね。あんたはさぁ、気が惹きたいだけでしょう。だったらさ、オフの時にやってね。今はみーんな仕事中なの、わかる?し・ご・と・ちゅう」


 一言言うごとに彼女はつつくように爪先で蹴りってくる。実際は靴の爪先部分でつつくような蹴りでしかないので体は痛くもないのだが、まるでゴミになった気持ちで玄人は心が痛んだ。


「そうか、あの女覚えていやがれ」


「でも、そこに髙さんがきてくれたの。ちょっと、君もいい加減にしなさいよって、田口さんを叱ってくれました」


「髙がか?そこに楊はいただろう?あいつこそどうした?」


「でも、髙さんが一番偉い人だから」


 玄人にまで楊は現場の飾りだと見られていたのか。俺は親友への憤りを一先ず押さえた。玄人が楊に憤慨していないのならば別に良い。あの田口を髙がちゃんと躾てくれていたならばそこで不問だ。

 だが玄人が続けた言葉によると、髙の一言に脅える楊班の連中と鑑識班は違い、田口は髙に脅えるどころか小馬鹿にした風にして言い返したのだという。


「髙さんこそ、今頃到着って何をされていたのですか?それに、それは何です」


「ふふ。これは先の現場の戦利品。それよりも、君こそ現場違いじゃないの。うちの班の鑑識は宮辺主任の班でしょう」


「私は、きょう、付で、宮辺班に編入されました」


「それで宮辺君を署に置いてきて、その上でオフの楊警部補を呼び出したの?なぜ?山口がちゃんと現場にいるじゃないの。君は山口に現場を任せられないっていうのかな?」


「そ、そんなことは!」


「君一人の越権行為?誰かの指示?困るよ、手順を踏み間違えると大問題になっちゃう。今回の手順変更について説明を今してもらえるかな?」


 言葉に詰まった彼女は怪鳥のような短い悲鳴を上げると、足音高く怒りを地面に打ちつけるように歩いて去っていった。その時に田口が髙にどんな顔を見せたのかは判らない。

 なぜなら、玄人は顔を上げることもままならない状態だったのだ。


「ちょっと、かわさん。玄人君がおかしい。具合が悪いみたい」


 玄人の異常に気付いた髙が声を上げると、楊よりも早く山口が駆けつけた。


「あぁ、クロトごめんね。ほったらかしにしてしまって。大丈夫?どうしよう、髙さん。顔が真っ青だ。どこかで横にしたほうが」


「そうだね。とにかくここから動かそう。山口、頼めるか?」


「もちろん。近くに時間貸しのホテルがありましたから、そこに運びます」


 山口の提案に、発作で体が動かない玄人は、ピシッと心の底まで固まってしまったそうだ。


「それよりも、俺の車に運ぶよ」


 玄人への助け舟の声は楊であり、戻ってきた彼が玄人を抱き上げようと玄人の肩に腕を回した。その時、変な生き物が体育座りの体勢で動けない玄人の腿の下に入り込み、なんと足の間から体を潜り込ませて来た上に、玄人の顔をなめたのだ。べろんと。それから臭いベロの持ち主は、ワンと鳴いた。


「やめてって。僕は犬が大嫌いだから。それで目が開いて声が出るようになったのです。それを見ていた髙さんが……この子がいると発作が治まるなら、今日は一日抱いているといいよ。良かったよ、この子を抱えては仕事ができないからね。あとでこの子を迎えに行くから、頼むねって」


 髙のセリフを一言一句正確に再現すると、玄人はがくりと首を前に落とした。


「ひどいよ、髙さん」


「今日は仕事どころじゃない、か。あの馬鹿警察どもめ」


 顔を上げた玄人の表情は蝋人形のように青白く強張り、それは久々の発作の後遺症だと見て取れた。

 思わずしてしまった舌打ちに、玄人はびくっとして、すいませんすいませんと、俺に繰り返し謝ってくるではないか。


 この玄人の様子は、まるで、九月に俺達が出会った頃の鬱が一番酷かった時のようだと、俺はその姿にさらにむかむかと苛ついた。すると、玄人の腕の中の不細工な小型生物は彼の下あごをなめて彼を一層追い込んだ後に、自分が原因だというのに俺に威嚇してきたのだ。


「シッ」

「キャウン」


 俺の威嚇に犬は一瞬で尻尾を丸めたが、玄人の方は犬嫌いのくせに、脅える犬を慌てて抱き直してあやし始めた。


「あぁ、ごめんなさい。ごめんなさい」


「お前が謝る事など無いだろ。脅えさせたのは俺だ」


 俺はこのどうしようもない物件にうんざりしていたし、売れなかった土地が高値で売れたことで少々の損益にも耐えられる事も思い出し、大きなため息をついた。

 俺の溜息にさえ玄人がビクッと脅えるとは、楊め。


「今日は、仕事を、やめよう」


 玄人はぴたりと動きを止めると、不思議そうな顔で俺を見上げた。

 彼の具合を見ながら彼を休ませることはあったが、俺自身が止めようと言うのは初めてだからだ。

 そして、俺はただでは転ばない。


「松野葉子にあの事件以来俺もお茶に誘われていてね。道すがらその不細工のケージを買って、松野葉子宅を強襲するぞ。シートベルトを閉めろ」


「はい。良純さん」


 松野葉子とは楊の婚約者の祖母であり、二月の事件のターゲットそのものであり、相模原市に大邸宅を構えている大金持ちの女王様だ。

 松野家で匿われて彼女と親友となったらしき玄人が頬に血色を戻らせて、今や俺を崇め奉るような眼差しを向けているではないか。


 偶には飴玉も与えなければいけないのだ。

 これで楊に今日の仕返しも出来るし。

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