玄人の鬱について
楊は約束の時間に玄人を返しに来たが、玄人を車から降ろすや俺に挨拶もなく逃げるように猛スピードで去っていった。実際逃げやがったのだ、あいつは。
そして不安そうに取り残された玄人は、犬が大嫌いな玄人は、去っていく車を犬を抱いたままの姿で呆然と見送った後に、俺のところに半泣きでトボトボ歩いてきたのだった。
彼は二十歳の成人だが、華奢な体と童顔で十代の子供にしか見えない。
話し方が子供めいているところは記憶喪失から八年目、という後遺障害の様なものかもしれない。
だが、内も外も子供でしかない彼であれば、世間はいかに怖いものとなっているのであろうか。
彼はが普段下ばかり顔を向けているのは、その恐怖から逃げる為ではないのか。
俺は彼のその素振りが、戦えない彼が美しすぎる顔を隠すための自己防衛なのだと考えている。襲い掛かって来た男に自分が男だと伝えると、誰にだって欠点はあると返されてしまうって、一体なんだ?と思わないか。
玄人の顔は、完璧な卵形の輪郭に人形のような小作りの鼻とぷっくりとした唇が付いていて、黒目勝ちの大きな双眸は東北人の血か無駄な長さと濃さの睫毛に覆われているという華々しさという、本気で無駄な美少女系なのである。
こんな顔の為、男でありながら怪しさばかりが際立ち、女にモテないどころか同性に襲われるばかりで友達が作れないという、可哀相な子供になるのだ。
そういえば、楊は高校時代男に囲まれている人気者だったが、まともに女性と付き合った事がないと公言していた。彼が玄人を「ちび」と弟のように可愛がるのは、自分と同じく外見が素晴らしい癖にその体たらくで可哀相な奴だからだろうか。
では奴に任せる事で玄人はそれなりに救われるか?
いや、この状況は楊が作ったものだと、俺は改めて不幸を体現する子供を見返した。俺が改めて玄人について考えてしまったのは、俺に向かってぽてぽて歩いてくる玄人から悲壮感が溢れまくっているからなのだ。
今の彼がマッチを買ってと強請ったならば、この無情の俺でさえ全部買ってやりたくなるほどだ。
「何やってんの」
「すいません。僕、頼まれてしまって。でも、犬は嫌いだし。どうしたらいいですか?」
嫌いと言いながらも落とさないように玄人は犬をしっかり抱いており、玄人の腕の中の小型犬はそんな玄人のために玄人を舐めようと身を捩った。
これ以上玄人を追い詰めないでくれ。
俺は無意識に玄人の頬と犬の口吻の間に手を差し込んでおり、犬は俺の手を舐めるどころか自分の邪魔をされたと俺に凄んで見せた。
赤っぽい茶色の毛はワイヤーヘアで、顔はパグのように潰れている。
見た事もないくらい不細工で不気味な風貌をしたチワワ程度の小型犬の癖に、かなり賢い。
それでも俺がこの犬に考えてしまうことは、何これ?猿と犬の赤ん坊か?だ。
俺の心からの侮辱に気が付いたのか、賢い犬は唸り声をあげた。
「うううう」
「俺は犬に呻られたのは初めてだな」
「ごめんなさい」
「お前が悪いんじゃないでしょ。今日は互いにツイて無い日ってやつだ」
俺は臭い部屋に戻って作業する気など失せていた。そこで駐車場に停めてあるトラックの中に玄人を誘導して落ち着いたが、そのまま車内に二人と犬一匹が納まって間抜けに呆けているという、なんとも情けない状態か。
このままでは仕方がないと俺が玄人を促すと、助手席に座る武本は青白い顔で呟くように語り出した。
「現場に遅れて髙さんが来たんです。この子を連れて」
まず、玄人の言葉によって現場が歩道橋下から民家傍の裏路地の不法投棄現場まで広がってしまったのだそうだ。
路地に捨てられたドラム式の大型洗濯機は、ガラスの扉は黒く塗りつぶされて中が見えない状態であった。扉を開くと、機械の中は残った肉片にウジが湧く腐乱死体の内臓のような有様で、扉の黒いものは凝固した血液だと誰もが判ったそうである。
「何これ。どうしたら人にこんなことができるの」
血濡れの洗濯機に群がる鑑識官達。楊は彼らに促されながら中を覗き、叫びにも近い怒りの声を上げた。楊の声がくぐもっていたのは、死体に慣れている彼でも耐えられない異臭に、腕で鼻と口を押さえていたからだ。
玄人はそこから少し離れたところにしゃがみ込んで、彼らの作業風景をぼんやりと眺めていたそうである。
「切り刻まれて生きたまま全自動洗濯機に放り込まれて、ぐるぐると脱水されたなんて怖すぎです。僕はそれ以上怖くて近づけなかったのです」
「俺も怖いな。よく洗濯機が回ったと思うけどね。死体はお前サイズだっけ?」
「手足を切り落とせば半分になります。僕には足も手もある姿で、助けてって手を伸ばしてグルグル回っているみたいにしか見えないけれど」
俺は玄人の頭を撫でた。
目を閉じても開いても、被害者が苦しみながら洗濯機の中で回っている映像が消えずに見せ付けられるのだ。
「それは辛いな」
「久しぶりに発作も起きて」
現場で一人幻影に悩まされていた玄人は、だんだんと体が強張り、久しぶりの発作が体を襲い始めたと気が付いてさらに脅えた。
彼の患っている欝は、新型と巷で呼ばれる非定型鬱である。通常の鬱が心が疲弊して体が動かなくなるのと反対に、体が先に動かなくなることで心を疲弊させて精神を鬱化するというものだ。
彼の発作の場合は、まず胸が締め付けられ、徐々に体が硬直していく。
硬直してしまった体は、自らの意思で動かすことは不可能となる。
つまり、肉体が精神の檻そのものとなるのだ。
彼が最近まで抱えていた電車に乗れないパニック障害は、その症状が起きるきっかけとなった心筋梗塞らしきものを駅のホームで起こして倒れたからだと思われる。
それほどに玄人には恐怖でしかない発作症状が今日の現場で彼を襲い、今にも気を失いそうだと察知した。彼はしゃがみこんでいただけの尻を地面につけて座り込み、そのまま頭を膝に乗せて目を瞑った。
潔癖症に近い玄人が汚れた地面に体育座りをして、そんな発作状態をやり過ごそうとしたというのだ。
なんて健気な、そして、楊は何をしていた!!
「ちょっと、君、仕事の邪魔だから立って」
久々の発作に耐えていた彼に対し、容赦ない声が掛けられた。
本気で、楊は何をしている。
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