バケモノが見た世界

はなのち霧雨

1 序章

「はぁ、はぁ...」



荒れた息を深呼吸で無理やり押し込める。

湿った空気は、枯れた喉を潤してくれるようだった。

濁った空は一層暗さを増し、降り注ぐ雨が体を重くさせた。

らんざつに結ばれた髪もぼさぼさで、ゴムが今にも取れそうで。


『___おい、こっちか!?』

『逃がすんじゃない!』


考える前に体が動いていていた。

水たまりなど気にもせず、狭い路地裏を駆け抜ける。

ふらつく体がガラクタやごみ箱に悲鳴を上げた。

もうどれぐらい走っているのだろう。

かすれた声は、雨音にむなしく消えていくだけ。

思考も、方向感覚も、霞んでよく見えない。

誰に追われているかなんて、今となってはどうでもいい。

ただ、ただ、遠くに行きたかった。

それだけだった。


「行き止まり...」


住宅街の迷路ゲームは終わりに差し掛かろうとしていた。

白塗りの壁が目の前に立ちはだかる。

その先は家だろうか、何だろうか。

高く伸びた植物でよく見えない。

私はその場から動けなかった。

ただ、見つめることしかできなかった。

それにしても大きな植物だな。

ぽつぽつと赤いツツジの花が咲いてる。

いや、ツツジかは、まっくらだからわからないけれど。

私の家の庭にもおんなじ色の木があったから。

ぎゅうぎゅうで、隣人から怒られるくらいぼさぼさのやつ。

ここのは、きちんと手入れされているんだろうな。

そんなどうでもいいことを考えてしまう私がいる。


私も、この植物のように手入れされていたら。

私も、ツツジの花のように愛でられたら。

私も...




『_____________ねぇったら!』


「ぅ、うわっ!?」


思わず、声を出してしまった。

だって、当たり前のことだろう。



見知らぬ人間が、私が眺めていたツツジの木の隙間から現れたんだから。

それも、私よりもぼさぼさな髪で、顔は泥と葉でよごれた。


『ねぇ!ここで何してるのー!』


は、体を草木に覆いかぶせたまま訪ねてきた。

彼女の顔と、上半身のみが身を乗り出してる感じだ。

なんとも奇妙な光景である。

彼女の無邪気に澄んだ声は大雨の中でもよく聞こえた。


「...ほっといてよ」


素直になれない私に、心の底から腹が立つ。

ぶっきらぼうな返事を、豪雨は拾い上げることもなく。

瞬き一つしない彼女は、ただ一心に私の目を見つめていた。


ふと、少女の手が私に向けられていることに気づいた。

その瞬間、私はハッとする。

雨音に紛れて、足音が近づいているのだ。

見つかるのも時間の問題だろう。


不思議と、不安も不信もなかった。

答えるように手を伸ばすと、その細い腕からは想像もできない力で、少女は私を引き上げた。

奴らが追いつくころにはもう、私は覆われたツツジの木を潜り抜けていた。


『ほらほら、こっち!』


ぬかるんだ地面をものともせず、少女はいとも容易く駆けていく。

つないだ手は、雨と汗でぐちょぐちょに。

今にも離れそうで、それでも力強く握られていた。

だだっぴろく感じる庭を進み、ここが一般的な家ではないことに気づいた。

大きな建物が前方に見えるようだが、明かりも何もない為によくわからない。

少女は、その建物に向かっているようだった。

突然、不思議な感覚が体中をめぐる。

雨に打たれ続けた寒気にしては生ぬるい。

嫌な恐怖が体を駆け回った。


「_____い、嫌だ!」


無理やりにも手を振り払う。

たじろぐ彼女と向き合った。

そもそも彼女は何者なんだ。

名前も知らない素性も知らない。

の仲間かもしれないし。


「そ、そんなとこ行きたくない!」


言いたいことも聞きたいこともたくさんあった。

でも、あの建物だけには入りたくなかった。

体がどんどん冷えていくのを感じる。

ずっとこのままなのはつらいけど、捕まるよりかはずっとましだ。

彼女が善人だとしても、これ以上迷惑かけたくない。

彼女は、ただじっとこちらを見つめていた。


「もう、いいからほっといてよ!」


これ以上何を言えばいいかわからなかった。

雨音にまけないぐらい叫んで見せる。

しかし彼女の口から出てきた言葉は予想だにしないものだった。


『そっか、じゃあこっちおいで!』


その無垢で、にすいこまれた私は、再度手を引く彼女にただついていくことしかできなかった。

私とおんなじくらいの年なのになんと勇敢なんだろう。

ちゃんとした家庭に産まれ、ちゃんとした教育をうけ、ちゃんとしたご飯をたべてすくすく育ったのだろう。

そんなことを考えながら、私のことを見捨てなかった彼女の、手のぬくもりを感じ走っていた。


『ほら、ここならだれもいないよ!』


そういって彼女に連れてこられたのは、小さな倉庫だった。

重い扉をこじ開け、さらに深い闇へと私をいざなう。

先ほどまでうだうだ言ってた私だが、不思議と怖くはなかった。

中に誰もいないから、大人がいないから、だろうか。

彼女自身を疑ってるわけではないんだろうな、と妙に納得する。

倉庫にはよく来ているからだろうか、手慣れた手つきでマッチとランタンを見つけ明かりを灯す。

窓もない倉庫の中に風はなく、そこには暖かな光だけがあった。

ぶつぶつと呟きながらものをかき分ける彼女は、やがて暖かそうな毛布と座れるスペースを見つけたようだった。


『ここ、ひみつきちなの!』


差し出された毛布は少しかび臭かったが、私の体をほだすには十分だった。

私が一言感謝を言うと、満足そうな顔でランタンを挟んだ向かい側に座った。


しばしの沈黙が流れる。

普段の私なら耐えられず逃げてしまうが、この沈黙は、正直言って悪いものではなかった。

呑気に鼻歌を歌っている彼女は、気を使ってくれているのか、はたまた単に興味がないだけか...。


「...あのさ」


ふり絞って出した声は、かすれまくって汚らしい。

それでも、彼女は気づいてくれたようだった。


「今日、ありがとう...ほんとに」


人に感謝をするのは久しぶりで照れくさくって、うつむきがちになってしまう。

そんな私を気にも留めず、彼女はにこにことしていた。


『いーよ!”ルツ”も家出してたから!』

「ルツ...?」

『ルツは、ルツの名前!』


初めて聞く名前だなぁとその時はなんとなく思っていた。

「そ、そっか...えと、私はみあk...」

『ミアっていうんだ!よろしくね!ミア!』

「あー...うん、そう、よろしくね」


訂正しなきゃという使命感よりも先にまぁいいかという感情が沸いてしまった。

どうせ一日だけの付き合いだろう。


『ミアの目って、ルツとおんなじだね!』

そういわれて、私はふと思い出す。



____通称『化物病』



ここ一年で耳にする感染症の一種だ。

情報に疎いので詳しくはしらないが、発症するとやっかいらしい。

そして発症者は速やかに保護され、”施設”で隔離するそうだ...。



「ねぇ、私も隔離...されるのかな」

『カクリってなに!』


知らないの、と言いかけるが、彼女の純粋そうな声に何とも言えない。

うっとおしいぐらいに彼女の発言全てに感嘆符がついているようだ。


「え、えっと...さみしい部屋に独りぼっちになっちゃうこと」

『そんなのないよ!”みんなのおうち”はみーんないるよ!』

「みんなの...おうち...?」


最初は、彼女なりの励ましなのかと思った。

でもどうやら本当のことらしい。

どうにも、彼女が嘘をつくとは思えない。


『ミアも、みんなのおうちに来るんでしょ?』

「え...そう...なのかな」

『だって目ぐるぐる!ほら、見てよ!』


そういってルツは、ひび割れた手鏡を倉庫から引っ張り出し私に向けた。

すこしやつれてるが、見慣れた顔だった。

奇妙で不気味な瞳の中を除いて。


言いたいこと、聞きたいことはたくさんあった。

私が化物病にかかった理由、追いかけてきた人をルツは知っているのか、そして”みんなのおうち”...。


口を動かそうとするも、どっときた疲れと眠気が私に襲い掛かった。

そういえば、何時間走っていたんだろう。

私はこれからどうなるんだろう。


わからない。

わからないけど...。

今は、まぁ、いいか...。


ずるりとすべらせた体は、起き上がらせることはできない。


ルツもおおきなあくびをひとつし、毛布の中にもぐりこんだ。


ただただ、暖かなランタンだけが、音を立て揺れていた。


外の雨音が、私たちに届くことはなかった____。

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