第90話 むき出しのプライバシー 4
(森川氏の弁・続)
これは私自身が生前の頃から取組んだことに加え、没後もなお、諸君から見た来世より児童福祉の行方を見ておりましてな、あの頃、わしが生きておった頃、それから貴君が成人する昭和末期から平成初期にかけてのあの世界、少なくともよつ葉園という場所を私なりに総括すれば、こういうことになろう。
質より量、それも、目の前の事象を、それでこなしていかねばならぬ状況。
そういうものであった。
貴君はそんな状況が常態化、もう日常茶飯事なんて生ぬるいものではなく、それが本質化してしまっていた、そんな場所に、幸か不幸か論ずるのも空しいほどの話だが、そういう場所に、そう、来てしまった。何の予告もなく、意思も問われず。
今の米河君が当時の状況の背景にあるものすべてを今生のうちに叩きのめすという姿勢をお持ちになっているのは、もう、仕方ない。私がどうこう言えるものではないし、そこらへんのわかった口を利く男女が手を出せるものでもない。
腫物に触るの「はれもの」か、触らぬ神に祟りなしの「神」か。
まさに君は、そのような存在になっておるわけよ。君が望む望まぬに限らず。
確かに、質より量をこなしていくような対応に終始していたあの頃のよつ葉園、津島町から丘の上に移転しても、それはすぐには変わり切れなかったようですが、それでも君がいる間はもとより、貴君が去った後も、よつ葉園は存在し、少しずつではあるが、変わっていき、そして今がある。
今時の少子高齢化、高齢は論点から外すが、少子化というのは、この世界においてはやはり、量より質が問われる時代になったことは間違いない。
さすれば、無駄に群れさせて何やらやらせておけば何とでもなる程度の、それこそ学校経営とやらを意識しながらぼちぼちやっていくような手法など、もはや通用せんわな。そのあたりは、あの大槻さんはお若い頃からお気づきであったがな。
大槻さんは職員側、それもトップに立って。
米河君は児童側、大学出のインテリさんとして。
この二人は、ある意味、旧態依然のよつ葉園にとっては、それはつまり私森川一郎が作り上げた場所の体質という点にとっては、悪い意味では無論ないが、よい意味ではあるけれども、まさに、「内憂外患(ないゆうがいかん)」であった。
大槻さんはもう高齢で園長は引退されたが、君はまだ50代半ば。さらに文章力を高め、まさに今、私の生前創出してきたものへの「トドメ」を刺しに来ている。わしとしてはつらい部分も無きにしも非ずではあるが、貴君のペン、まあ物理的にはパソコンであるがそれはよろし、ともあれ、そのペンにおいて書かれた文字群は確実に、旧態依然の、古き良き、まあ君にはおぞましいだけのものじゃろうが、それを葬り去って墓標を立てるまでの役目を果たすことは間違いない。
その葬る墓標に書かれるのはまさに、貴君も兼ねて述べた通りの言葉。
むき出しのプライバシー
これこそが、貴君の葬り去るものの正体じゃ。
・・・ ・・・ ・・・・・・・
ここでいったん、この日の論争は中断。
次回は、8月27日・日曜日の未明に決定した。
今度は、米河氏の論述となる。
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