第49話 形を変えて繰り返す今昔の社会の病理
「戸塚ヨットスクールはまだしも、あの風の子学園の事件というのは、時代の過渡期に咲いたあだ花なのではないかと、私は、そのように解釈しております」
「戸塚ヨットスクール、な。ありましたな。あんなもの、生きておるうちに報道を見聞きせず済んだ私は、ある意味幸せかもしれんね」
「そうですか。まして、あの風の子学園は・・・」
「問うだけ野暮じゃろう。あれは論外。大槻君のお言葉通り。それ以上もそれ以下もなしというものである」
「確かにそうですよね。しかしながら、私、あの事件を、次作で触れぬわけにはいかないように思っております」
「それは、君の論ずべき題材における、あだ花の事例としてか?」
「そのとおりです。不登校、当時はまだ「登校拒否」という名前が残っていたあの事象ですけれども、大きな流れという視点からは、あのような形で問題が出ることも必然だったのかもしれません。殺されたほうにしてみれば、たまったものではありませんけどね」
・・・・・・・ ・・・・・ ・
夜は明け始めた。
岡山行の2番目の列車が窓の下の線路を駆けていく。
・・・・・・・ ・・・・・ ・
「私の生きた時代からすれば、米河君が生きておる時代の「不登校」なんか、予想もつかなかった。とはいえ、事象的には、同じようなものはあったぞ。百姓の子に学問はいらんとか何とか、そういうことをのたまって、子どもらを学校にやらず家の仕事をさせるような親は、確かにおったからな。もっとも、今の時代のように問題にされるよりむしろ、かわいそうだな、仕方ないな、程度のものであった」
「でしょうね。森川さんが今ご指摘された、明治時代の学校に通えぬ子どもと、私が青年期に社会問題化した不登校、形は違いますけど、ある意味、本質的な病理は共通のものがあるのかもしれません。ある意味、学校の可能性と限界の狭間で発生した問題であることには、違いないのではないかと思料します」
「そうか。米河君の御指摘で気づいたが、高校中退という事象に対して、家庭の経済事情とか本人の病気とか、そのような理由のものに対しては、私の青年期の明治時代の小学校にも通えぬ農家の子らと、ある意味同じような目が向けられておったということになるじゃろうね」
「そういうことになりますね。だが、そんなものを許さない風潮がどんどん多勢を締めていったという点においても、共通点が見られるのではないかと」
「そこじゃ。私も、そこが重要なポイントになりゃせんかと思う。結局のところ、昔も今も、人間社会の本質は変わっていないことの例証になることには変わりはないのではないかな?」
「それは、私も感じますね」
・・・・・・・ ・・・・・ ・
夜はすっかり明けた。
朝の6時も近づいてきた。
季節柄、外はもう明るい。
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