第7話 渉くんのお母さんに聞かれたら、まだボール蹴ってましたって言っておくから、それじゃあっ
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私と渉くんが、幼稚園からの幼馴染ってことは、市川さんも都賀くんも知っていると思う。幼稚園のときから、私、ちょくちょく男の子に嫌がらせされることが多くて。苦手な虫を見せつけられたりとか、酷いときは、トイレに閉じ込められたりとか。小学生上がってからだと、私運動音痴だから、跳び箱飛べないことをからかわれたり、ひとりだけ逆上がりできなくて馬鹿にされたり、たまにスカートめくりされたり……。
渉くんは、そういう嫌がらせのひとつひとつを解決してくれてたんだ。でも、私はその影響もあってか、昔からどうしても男の人が苦手で……。ぜ、全員が全員ってわけじゃないよ? 都賀くんが苦手だって言っているわけじゃなくてね? 今は、ある程度仲良くなっちゃえば全然問題ないんだけど、どうしても、トラウマっぽいのは拭えなくてね……?
それが、前提としてあるんだけど……。
先週の日曜日、サッカー部で練習試合があったから、私はその試合を見に行っていたんだ。
その日の練習試合は、東北のプロサッカーチームのスカウトさんも見に来るということで、渉くんもいつも以上に気合が入っていた。
渉くんの特長とも言える、大きい体と長い手足、優れた反射神経からなされるセービングは、余すことなく発揮していたと思う。四十分ハーフ、計八十分の試合で浴びた枠内シュート、十本全てを、渉くんは防いでみせていた。
結果、インハイや冬の選手権にも出たことがある強豪校相手に、0対0の引き分けに持ち込んだのは、渉くんの功績も大きいと思う。スカウトさんも、渉くんが何度も何度も見せたセーブや、コーチングの的確さに満足していた様子だった。
私だって、渉くんがそれで満足するなら、全然いいんじゃないかって思える出来なんじゃないかって思った。
運動音痴の私に、ひとつひとつプレーの良し悪しなんて、結果でしか捉えることができない。無失点に抑えたのなら、それでいいんじゃないか、私はそう思っていたんだけど。
でも、半分くらい予想していた通りだけど、渉くんは、その日の自分のプレー内容に満足していなかった。
「……まだいたんだ、初芽」
練習試合後のミーティング、後片付けも終わった後、陽が暮れかかったグラウンドに残っていた渉くんは部室からサッカーボールがたくさん入ったネットと膝くらいの高さのミニゴール、カラーコーンふたつをゆっくりと順番に持ち出しながら、彼の帰りを待っていた私にそう話しかけてきた。
「……今日もやるの?」
足元を見ると、靴はまだスパイクを履いている。このまま帰宅するつもりなら、普通のシューズに履き替えているはず。スパイクでアスファルトの上を歩くのは足に悪いことは、私以上に渉くんが理解しているはずだから。
「ああ。……全然ダメだよ。こんなんじゃ、上にはいけない」
ポン、と薄汚れたボールをグラウンドに落として、簡単に足先で何度かリフティングする。私なんて、二回できれば奇跡なのに、いとも簡単そうに三度四度とやるのだから、それだけですごいと思ってしまう。
「……お願いして、いいか?」
渉くんは、そう言うと、蹴り上げていたボールを軽く私のほうにパスする。飛んできたボールを、私はあたふたしながら受け取って、
「う、うん……」
力なくそう返した。
私がボールをボウリングの要領でコロコロと渉くんに転がして(スピードにも変化を加えて)、そのまま渉くんのもとに小走りで向かう。プレッシャーのかかった状態で、渉くんが狙った場所にパスできるかどうか。
私が付き合っている特訓の内容は、それだった。
渉くんが、プロに注目されるようになったのは、高校二年生のときの夏のインハイ予選でのことだった。その年の桜坂高校は、支部予選を勝ち上がって、東京都の一次トーナメントに進出していた。ただ、その一回戦の相手が、都のベスト4常連で、プロ選手を何人も輩出している超がつく名門校だった。一回戦を見に来たスカウトさんやメディアの人たちのほとんどは、無名も無名のただの都立高である桜坂高校に注目なんてしているはずもなく、相手チームの選手を見に来ていた。
でも、その試合で、渉くんはとんでもない存在感を放つことになる。
プロ注目、あるいはクラブユースに入っていたことがあるような選手がほとんどの相手に、桜坂高校はとても通用するはずもなく、中央でもサイドでも、一対一で好き放題にやられてしまう。渉くんはそれこそ銃弾のように相手からシュートを浴び続けた。正確な数は数えていないけど、恐らく三十本は超えていたのではないだろうか。
けど、その一本たりとも、渉くんはゴールを割らせることは許さなかった。それはいつか渉くんから聞かされた、かつて日本がブラジルに勝った、「マイアミの奇跡」と呼ばれる試合に、ちょっとだけ似ているように思えた。
八十分の前後半、十分ハーフの延長戦も自分のゴールを守り切った渉くんは、名門校相手に決着をPK戦にまで持ち込ませた。
その段階で、試合を見ていたスカウトさんたちはざわつき始めるし、メディアの人たちは「あのキーパーは何者だ」と情報を集めようとした。
極めつけは、PK1本目、既にプロ入りがほぼ内定しているという相手チームのエースストライカーのPKを止めたときだった。
このときばかりは、無名の都立高校が強豪私学を倒すのではないかと周りの注目も集まっていた。……ただ、そんなに世の中は甘くなくて、百分間走り続けて、完全に足がつってしまった桜坂高校の選手に、PKを決める余力は残っていなかった。渉くんも、何本も続けてシュートを止めることはできず、スコアは0対0(PK:0対3)という結果に終わった。
試合は負けに終わってしまったけど、たったその一試合だけで、榎戸渉というゴールキーパーは一気に知る人ぞ知る守護神のひとりに数えられるようになった。
それから、何個かのプロチームが渉くんに興味を示して、三部リーグに所属している東北のクラブが今も引き続き調査をしている、といった現状だ。
「──くっ、全然狙ったところにボールが蹴れねえ」
練習試合後の特訓開始から三十分。渉くんの蹴ったボールは、自分で設置したミニゴールとは明後日の方向に飛んでいく。ボールは十個くらいしか出していないので、飛んでいってしまった分は後で渉くんが自分でダッシュして取りに行く。その回数が多いためか、ちょっとだけ渉くんは自分の出来に不満げだ。
私も私で、三十分も小走りだけど何回も数メートルの距離を往復していると、息はすぐに上がってしまい、
「……はぁ……はぁ……ご、ごめん。ちょ、ちょっと休憩……」
へなへなと、その場にしゃがみ込んでしまう。
さっきまで練習試合もこなしていたはずの渉くんは、まだピンピンとしていて、体力の違いをまざまざと感じさせられる。
「おっけ。ほら、これ。今日のお礼」
そんな私に、渉くんは自分のエナメルバックから使われていないタオルと、開けられてないスポーツドリンクを一本差し出す。
「……あ、ありがとう……」
すると、渉くんはひとりでの練習に切り替えたみたいで、ワンタッチしてからボールをミニゴール目掛けてパスをする、という内容に変更していた。
私がいるときよりも成功率は断然高くて、十個のボール全部が吸い込まれるように狙った場所に蹴ることができていた。
「……全然上手に蹴れてるよ? まだ何か気になるところがあるの?」
貰ったスポーツドリンクをひとくちふたくち喉に通して、搔いていた汗を拭うと、少しだけ息が楽になる感じがする。ひとり黙々とボールを蹴ってまた戻してを繰り返す渉くんに、ふと私はそう話しかける。
「フリーの状態で狙った場所に蹴れるのは当たり前だろ? それができないなら、単純にもっと練習しないといけないってことなんだから」
そんな素人質問にも、嫌がることなく渉くんは答えてくれる。
「試合のとき、ノープレッシャーでボールを蹴れるなんて限られたときしかない。大体は相手が俺からボールを奪おうとプレッシャーをかけに来てる。そんなときでも、俺が正確にボールを繋げられたら、もっとチームに攻撃の機会が増えるだろ? 今日だって、俺のせいで何回かボールを失ってるわけだし」
「……まあ、それはそうだけど」
「それに、キーパーはゴールだけ守っていればいい時代じゃなくなっているんだ。キーパーもフィールドの選手と同じくらいボールを扱えないと、今のサッカーにはついていけなくなる」
「そういうものなんだね」
正直、今のサッカーがどうとか、そういう話は全然わからないけど、子供のときからずっとサッカー一筋の渉くんが言うなら、きっとそうなのだろう。
「でも今日来ていたスカウトさん、渉くんのセーブ見てうんうんって頷いていた気がしたけど」
そもそも、渉くんが注目を浴びたきっかけは、ゴールを守る部分。今渉くんがこだわっている、ボールを蹴る部分ではない。
「……あそこのチームは、今はゴールキーパーに足元の技術を要求しない戦術を取っているからな。でも、監督が代わるだけで、どうなるかわからない。それに、できないことがあるってわかっているのに、何もせずそのまんまにするのは、なんか違うだろ?」
正論過ぎる正論だ。
「……今年は、もっと上まで、今のチームで行きたいし」
「……それって、インハイ?」
「究極的には、そうだけど。でも、そんな一朝一夕で強くなれるほどサッカーは甘くない。ただただ、一試合でも多く、勝ち残りたいってだけだよ」
彼はどこまでも真っすぐで、強くて、真面目で。
だから、それと比べて、全然弱いまんまの私と比べると、少し嫌気がさしてしまって。
陽が暮れて、歩道に立っている街灯がオレンジの光を放ち始めて、グラウンドの視界が悪くなっても練習を続ける彼に、私は言ってしまった。
「もう、遅い時間だし、今日は十分なんじゃない……? そろそろ学校も閉まっちゃうし……」
「ああ、もうちょっとだけだから」
何回聞いた、もうちょっとだろうか。スマホの時計は、もう夜の七時を回っている。私も帰らないと、お母さんに怒られてしまうかもしれない。
「……全然、全然今のままじゃ、駄目だ……!」
しかし、ストイックにボールを蹴り続ける渉くんに、練習を終わらせる気配は微塵もなくて。それに、半日も動き続けているからか、さすがの渉くんと言えど、疲れでボールがあちこちに飛んでいくようになってしまっていた。
「……試合も一本こなしたし、もうやめようよ。疲れているの、私にもわかっちゃうよ」
そんな様子も見かねて、私はボールを置いて彼のもとに近寄ろうとした。けど、
「今のまんまじゃ、また去年と同じところで負けちまうんだよ! ……帰りたいなら、初芽は先に帰ればいいだろ」
もともと練習試合から溜まっていた自分の出来への不満が、少しだけ表に出てしまったのだろう。ちょっとだけ声を荒げた渉くんは、私が置いたボールを攫ってもううっすらとしか見えないミニゴールに雑に蹴り込んだ。
普段、私にはそんなに大きな声を出さない渉くんだったけど、この瞬間は、暗闇ではっきり顔も見えないことも相まって、とてもとても、大きい体の彼が怖く見えてしまって。
「ひぅっ!」
反射で体を縮こまらせて、一歩二歩、後ずさりしてしまう。それを見て、渉くんもしまったと思ったのだろう、
「ごっ、ごめっ、怖がらせるつもりじゃなくてっ──」
すぐに謝ろうとした。
「……う、ううん。ごめんね、練習の邪魔して、わ、私、もう帰るね。渉くんのお母さんに聞かれたら、まだボール蹴ってましたって言っておくから、それじゃあっ」
でも、子供の頃にしょっちゅう男の子に髪の色をからかわれたり、あるいは嫌がらせをされて、少しではあるけど男の子に苦手意識を持っていた私は、これまでの経験から考えるよりも先にその場から離れることを選んでしまって。
「あっ……」
言葉にならない声を漏らしている彼を背に、私はめちゃくちゃなフォームで走って学校のグラウンドを後にしていた。
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