序ノ參「将星集いて、英雄発射の装薬整うのこと」(参)

 強硬案に傾きつつあった場を強引にでも押し戻そうとする者がいた。左近将監の受領名を持つ田結庄である。彼は城崎の字にもその名があるとおり、但馬の古豪である。彼のような、但馬や因幡、伯耆などの古豪は山名家の譜代として登録されてはいたが、垣屋家の前身にあたる土屋党などとは違い、現地勢力として見られていた。無論、但因伯三州においては山名家は圧倒的な力を保持している関係上、彼らのような小規模である古豪などは山名家に従う以外に道はなかったのだが、現地勢力である彼らは土屋党などの郎党勢力とせめぎあいをしている立場であり、本来ならば太田垣―塩冶―八木と現地勢力の意見が続いた関係上、立場的にはそれを推進すると思われていたが、思うところがあったのかあえて強硬案の勢いを止めにかかった。

「どういうことだ、左近」

 強硬案に水を差すと言えば聞こえは悪いが、ここは軍議の場であり、意見は多ければ多いほど健全な運用体制と言えた。それに、山名家は先の大乱でもめた細川家と違い、ある程度の優遇や懐柔などによって国衆を巧妙に統率できており、その現地勢力を効果的に運用しえたことがその軍事力の強靭さの秘訣ともいわれている。

「三木まで張り出すにはさすがに危険すぎまする。第一、兵がいくつあっても足りませぬ。ここは上月までで一度様子を見るのが適策かと存じ上げまする」

 田結庄の案というのは、つまりは遅攻案である。強硬意見の多くは速攻案であり、速攻案というものは一度躓いたら味方が取り返しのつかない損害を受ける危険な案である。それに対して田結庄の遅攻案は一度得た領土を失わぬように地固めをして山名家の支配領域を徐々に広げ、その上で仮に赤松家が反撃を行ったとしてもすぐに取り返せるような慰撫工作をすべきというものであった。

 それは彼は国衆という立場上、播磨に自分と同じような勢力がごまんと存在していることからそういった国衆の支持を得ねば播磨平定を行ったとしてもそれが砂上の楼閣として総崩れになり得ることを危惧していた。いかに山名家の軍兵が精強といえど、彼らも元は民である、故に民にそっぽを向かれた場合、いかに強権による政権を敷いたとしても何れ崩れ去るものである。第一、民が懐かぬとあってはそれを束ねる国衆もまた反発せざるを得ず、国衆の反発を押さえつけて遠征軍を維持するのはいかな足利分家と言えども至難の業であった。

「田結庄よ、上月はさすがに慎重ではないのか」

 田結庄の意見に対して反駁するは滑良という武将であった。彼の名は後代山名三老と称される太田垣・八木・田結庄の三家にに比べそこまで影の濃い人物ではなかったが、彼の家系は明徳の乱に於いて、かの垣屋弾正忠頼忠と共に主君の盾となり玉砕した、滑良兵庫助を父祖に持つこともあって垣屋続成が摂津守護として独立した後にはその穴を埋める形で様々な人材を輩出しており、同時代人にとっては到底影の薄い存在とは言い難かった。

「いくら何でも、この時期に上月まで下がったとあっては臆したと思われる。三木などの東播まで赴くのは危険なれど、岡山や御着などの西播東備は維持すべきぞ」

 滑良の言いたい内容とはつまり、内線を防御するために外線で迎撃するという軍事学の基本である。軍事学に曰く、最高の防御方法とは敵の基地を未然に叩いておくこととある。その叩く方法とは何も文字通りに先制攻撃を行うだけではない、現地住民を懐かせたり、あるいは挑発して先に手を出させ大義名分を得たり、あるいは敵が基地を作るであろう場所の補給路を断つ行為などもよくある手筈といえる。

 まあつまり、滑良が主張している内容とは御着や岡山などに前線を置くことによりそれより但馬側に位置する上月や天神山などを実効支配してしまい、徐々にその領域を広げていき播備作を段階的に領有して嘉吉の乱の戦功に対する恩賞を再確認させよう、ということであった。この案はそこまでさして珍しい案ではなかったが、この機で出された場合は田結庄の遅攻案と諸将の速攻案をうまくつなげた折衷案といえた。

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