礼志7  拓跋嗣即位後祭祀

拓跋嗣たくばつし即位後の 410 年3月、拓跋嗣は武周山ぶしゅうざん車輪山しゃりんざんそれぞれで祈祷を行った。

拓跋嗣の弟である拓跋紹たくばつしょう拓跋珪たくばつけいよりの寵愛めでたかったのだが、その性格は凶悪そのものであり、拓跋嗣は道義心より弟を責めていた。しかし結局拓跋紹が従うことはなかった。このため拓跋嗣はいつか変事が起こるのではないかと恐れ、こうした山々の上にて天地の神祇じんぎに祈りを捧げていた。即位の儀式に際し、これらの拓跋嗣の祈祷がそのまま祭礼として続くこととなった。年一回執り行い、犠牲には牛を捧げた。拓跋嗣がみな直接行った。特に決まった日では行わなかった。


411 年、拓跋珪の廟を白登山はくとうさんに建立した。年一回の祭祀を行い、犠牲には太牢を捧げた。こちらも拓跋嗣が自ら行った。特に決まった日程はなかった。この時合わせて皇天上帝の祭祀も行った。山神が配され、日照りが起こったときに祈祷を行うと実効があった、とされている。

同年、詔を下す。北魏国内の内、拓跋珪が行幸をなし、宮殿を構えた場所に祭壇を立て、それぞれ年一回太牢を捧げる祭祀を執り行うための専門官を用意させた。あわせて拓跋珪の廟を宮廷内にも建立、年四回祭祀を執り行った。それぞれ牛、馬、羊を一ずつ捧げた。

更に宮廷内には天・日・月の神や諸小神の廟を合計二十八ヶ所設け、年二回の祭祀を行い、それぞれに羊一体が捧げられた。


二年後、白登山の西にある拓跋珪がしばしば行幸した地に拓跋什翼犍たくばつじゅうよくけん拓跋寔たくばつしょく、拓跋珪の廟を立てた。九月末から十月頭にかけての期間で祭祀が執り行われ、拓跋嗣自らが祭祀に当たった。犠牲には馬、牛、羊が捧げられた。この時拓跋嗣自ら「貙劉くりゅうの禮」が用いられた。これはどうも拓跋嗣が直接犠牲を殺す儀式であったようである。このほか別に天神ら二十三を廟の左右に配した。神のうち大きいものは馬を捧げ、小さいものには羊が捧げられた。


拓跋嗣の姉である華陰公主かいんこうしゅは拓跋紹が反逆を為したとき、国体保護に功績があったためその廟が拓跋珪の廟の生垣の後に設けられ、合わせて祭祀が行われた。


雲中うんちゅう盛樂せいらく金陵きんりょうの三ヶ所にはそれぞれ太廟が建てられ、四季それぞれのタイミングで神官による祭祀がなされた。




太宗永興三年三月,帝禱于武周車輪二山。初清河王紹有寵於太祖,性凶悍,帝每以義責之,弗從。帝懼其變,乃於山上祈福於天地神祇。及即位壇兆,後因以為常祀,歲一祭,牲用牛,帝皆親之,無常日。

明年,立太祖廟于白登山。歲一祭,具太牢,帝親之,亦無常月。兼祀皇天上帝,以山神配,旱則禱之,多有效。是歲,詔郡國於太祖巡幸行宮之所,各立壇,祭以太牢,歲一祭,皆牧守侍祀。又立太祖別廟於宮中,歲四祭,用牛馬羊各一。又加置天日月之神及諸小神二十八所於宮內,歲二祭,各用羊一。後二年,於白登西,太祖舊遊之處,立昭成、獻明、太祖廟,常以九月、十月之交,帝親祭,牲用馬、牛、羊,及親行貙劉之禮。別置天神等二十三於廟左右,其神大者以馬,小者以羊。華陰公主,帝姊也,元紹之為逆,有保護功,故別立其廟於太祖廟垣後,因祭薦焉。又於雲中、盛樂、金陵三所,各立太廟,四時祀官侍祀。


(魏書108-7)




初清河王紹有寵於太祖,性凶悍,帝每以義責之,弗從。帝懼其變,乃於山上祈福於天地神祇。

オメーこれ拓跋珪の死も願ってたんジャネーノ感が、こう、な……? いやほんと、拓跋嗣の拓跋紹撃滅って、あんまりにもスムーズに行き過ぎてんですよね。まぁ拓跋紹がそれだけ支持されてなかったってだけのことかもしれないですけど。


それにしてもこういう祭礼で皇帝の姉の名前が出てくるのは漢人文化圏的に珍しいですね。鮮卑文化圏ならまあ普通に出てくるでしょって感じですけど。後世人による「翻訳」以前の資料、どっかから出てきてくれないかなあ。まぁ難しいのは承知しております。

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