礼志2  拓跋珪皇帝即位

398 年、平城へいじょうを都とさだめ、拓跋珪たくばつけいは皇帝位に即いた。


祭壇を立ち上げ、天地の神に報告。その祝詞はこのようである。

「皇帝たる臣、拓跋珪が玄牡を捧げ、高らかに皇天后土の靈に申し上げる。上天より命降り、我が代々の先王がたをこの平城の地にお引き連れとなった。この拓跋珪は不德の者でこそあるが、先王らの武略高き事業を引き継ぎ、民草を安んじるべきことを念頭に置き、畏れ多くも天意に基づき天意にまつろわぬ者を処罰して参った。劉顯りゅうけんを斬り、劉衛辰りゅうえいしんを滅ぼし、慕容ぼようを平らげ、ついに中夏ちゅうかを平定した。こうした成果より臣下らの皇帝即位の勸進を受け、天を正しく祀るべき者が確かにおらねばならぬと決意、かくて天や人々が抱く願いに従うこととした。天の時、人のはかりごと。いずれをもってしても替えの利かぬものである。よって慎んで礼官らに命じ、吉日を選び出し、皇帝の璽綬を賜ることとした。冀わん、天地の神々よりの祝福がこの魏を祝福され、もって天下を祝福されんことを」


儀式が終わると、有司ゆうしに命じ臣下らの階級を定め、また朝廷で公式にはおるべき服の色を定めた。羣臣は北魏ほくぎ黃帝こうていの徳を継承しうるものであるとし、土德を奉じるべきである、と奏上。このことから土徳の聖獣である牛を尊ぶべきであるとした。このとき天空で黃星こうせいが特に輝きを強くしており、これもまた土徳の国が立ち上げられたきざしであるとされた。


こうしたことから北魏は始め土德の国、吉数は五、服は黃、犧牲として捧げる動物の色を白とした。天を祀る儀禮には周典しゅうてんが用いられ、夏の四月に皇帝が西郊にて天を祀る儀式を執り行うこととし、そうした儀式に掲げるための旗が織られた。




天興元年,定都平城,即皇帝位,立壇兆告祭天地。祝曰:「皇帝臣珪敢用玄牡,昭告于皇天后土之靈。上天降命,乃眷我祖宗世王幽都。珪以不德,纂戎前緒,思寧黎元,龔行天罰。殪劉顯,屠衞辰,平慕容,定中夏。羣下勸進,謂宜正位居尊,以副天人之望。珪以天時人謀,不可久替,謹命禮官,擇吉日受皇帝璽綬。惟神祇其丕祚於魏室,永綏四方。」事畢,詔有司定行次,正服色。羣臣奏以國家繼黃帝之後,宜為土德,故神獸如牛,牛土畜,又黃星顯曜,其符也。於是始從土德,數用五,服尚黃,犧牲用白。祀天之禮用周典,以夏四月親祀于西郊,徽幟有加焉。


(魏書108-2)




「北魏ははじめ土徳だったけど後に水徳に改められた」。このへんは礼志の後のほうに載る話なんですけど、射程範囲外の箇所なのでここで書いておいちゃいましょう。礼志1の太和十四(490)年8月条で高閭こうりょがこう語っています。


晉承魏,土生金,故晉為金德。趙承晉,金生水,故趙為水德。燕承趙,水生木,故燕為木德。秦承燕,木生火,故秦為火德。秦之未滅,皇魏未克神州,秦氏既亡,大魏稱制玄朔。

晉は魏を継承した。土生金であるため晉は金德である。趙が晉を継承した。金生水であるため趙は水德である。燕が趙を継承した。水生木であるから燕は木德である。秦が燕を継承した。木生火であるから秦は火德である。そして秦の滅亡に合わせ、我らが大魏が立った。


んー、自分の予測では前趙→後趙→前秦→後燕→北魏だと思ってたんですが、違いましたね。ていうかなにこいつら相生説で語ってんの? お前らのやってることのきなみ、良く言えば放伐でしょ? 相克説で継承させなさいよ。



ちなみに孫険峰

『皇帝即位の禅譲文――三国・晋・南北朝における経学の一側面――』

https://tsukuba.repo.nii.ac.jp/record/21636/files/3.pdf

によれば、拓跋珪の即位詔勅は劉備の即位詔勅に大いに依っている、とのこと。ってことはやっぱり蜀正統論なんでしょうかね。

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