魏書 志

魏書 巻107 律暦志

律暦志1 暦の歴史

暦とは天地神霊の微細なる働きをも解きあかさんとする秘術であるとも言える。太陽と月、そして五星よりもたらされたものが、天下にあまねく示されるのである。


古くは黄帝こうていの時代より夏殷周の三代に至るまで、おそらく折々に手は加えられたものと思われるが、はっきりとしたことは言えない。秦の世に漢が興ったが、曆は顓頊歴せんぎょくれきが用いられていたが、百年あまりして武帝の時代、はじめて三統暦さんとうれきが用いられた。


後漢ごかん章帝しょうていの世に改訂がなされ四分暦しぶんれきとされ、霊帝れいていの時代に乾象暦けんしょうれきが(正確に言うと霊帝の時代に検討がなされた暦法が呉にて採用されることになった)、曹丕そうひ韓翊かんくの定めた黄初暦こうしょれきを、曹叡そうえいの時代には楊偉よういの定めた景初暦けいしょれきが用いられ、この暦は晉朝しんちょうにあっては改訂されることが無かった。


天の現象を推し量らねばならないのは古今に渡り変わらず求められるところである。天地の動きに暦をうまく合わせられぬと、様々な祭祀に不備が生じる。


拓跋珪たくばつけいの立った後、 398 年ころ、太史令たいしれい晁崇ちょうすうに命じ渾天儀こんてんぎを修繕の上星の動きを検証させ、景初曆けいしょれきを用いるのがよい、という結論となった。しかしそこから時が下ると、徐々に天運と暦とに齟齬が生じ始めた。


拓跋燾たくばつとう北涼ほくりょうを制圧したあと、趙𣤆ちょうひを得たため玄始曆げんしれきが制定された。景初曆よりも実情に沿うと言うことで採用された。


太平真君年間(440-451)中、司徒の崔浩さいこう五寅元曆ごいんがんれきを算出したが、施行の直前に崔浩が誅殺されたため中止された。




曆者數之用,探靈測化,窮微極幽之術也。所以上齊七政,下授萬方。自軒轅以還,迄於三代,推元革統,厥事不一也。秦世漢興,曆同顓頊,百有餘年,始行三統。後漢孝章世改從四分,光和中易以乾象,魏文時用韓翊所定,至明帝行楊偉景初,終於晉朝,無所改作。司天測象,今古共情,啟端歸餘,為法不等,協日正時,俱有得失。太祖天興初,命太史令晁崇修渾儀以觀星象,仍用景初曆。歲年積久,頗以為疏。世祖平涼土,得趙𣤆所修玄始曆,後謂為密,以代景初。真君中,司徒崔浩為五寅元曆,未及施行,浩誅,遂寢。高祖太和中,詔祕書鍾律郎上谷張明豫為太史令,修綜曆事,未成,明豫物故。遷洛,仍歲南討,而宮車晏駕。


(魏書107-1)




太陽太陰暦は大変ですねー(ハナホジ)

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