東晋6  王恭横死

建業けんぎょうに迫らんとする王恭おうきょう劉牢之りゅうろうしを前鋒として派遣、竹里ちくりに駐屯させた。対する司馬道子しばどうしは王恭を陥れるため、劉牢之に多くの贈答品を贈ってこびへつらった。結果劉牢之は王恭の配下将である顏延がんえん顔強がんきょう兄弟を斬り捨て、ふたりの首級を謝琰しゃえんに送って同調の意思を示した。こうして謝琰と劉牢之はともに王恭の本陣を襲撃。王恭は曲阿きょくあに逃れたが、湖浦尉こほいに捕らわれ、建業けんぎょうに送致された。


司馬尚之しばしょうし庾鴻ゆおう庾楷ゆかいの子)が牛渚ぎゅうしょ歴陽れきよう対岸の長江ちょうこうの渡し場にて激突。ここで司馬尚之は庾鴻の前鋒將である殷萬いんまんを斬り捨てた。このため庾鴻は上陸を諦め歷陽れきようにまで引き返した。司馬尚之はここで敢えて追撃を掛けず、牛渚に留まった。やがて桓玄かんげん楊佺期ようせんきの軍が一斉に長江を渡河。司馬尚之らは撤退したが、司馬恢之しばかいしの率いていた外軍はみな桓玄軍の手に落ちた。


桓玄らは長江を渡るなり石頭せきとう場に急行。殷仲堪は後続として蕪湖ぶこに陣を張り、建業はこの事態を前に恐懼した。しかしこのタイミングで司馬道子が王恭を倪塘げいとうにて処刑。旗印を喪った桓玄らは尋陽じんようまで撤退した。


この歳の冬、司馬德宗しばとくそうは北魏に朝貢の使者を遣わせ、また姚興ようこう討伐の援軍をよこしてほしい、と依頼してきた。

翌年夏、司馬德宗は再び朝貢の使者を遣わせた。




王恭遣劉牢之為前鋒,次于竹里。初,道子之謀恭也,啗牢之以重賞,牢之斬恭別帥顏延、延弟強,送二級於謝琰。琰與牢之俱進襲恭,恭奔于曲阿,為湖浦尉所執,送建業。尚之與庾楷子鴻戰于牛渚,斬鴻前鋒將殷萬,鴻遁還歷陽。尚之猶不敢濟。桓玄、佺期奄至橫江,尚之等退,恢之所領外軍皆沒。玄等徑造石頭,仲堪繼在蕪湖,建業震駭。道子殺恭於倪塘。桓玄等於是走還尋陽。

是年冬,德宗遣使朝貢,并乞師請討姚興。二年夏,德宗又遣使朝貢。


(魏書96-6)




まぁ正直上のほうはいつもの速報って感じだしどうでもいいんですが、やっぱり重要なのはラスト二行ですよね。398年冬、399年夏に東晋が北魏に遣使。この事績って晋書では、一通り見回した感じだと一切載っていません。何故か。「北狄なんぞに頭を下げた証拠を史書に残すわけにはいかない」。マジで東晋人のメンタルクソカスですね。本当は対等、……と言うところまではみていないでしょうけれど、ある程度の仲を保っておかなければいけない相手だと見做していたくせに、そこを自分たちの公式記録には一切残さないわけです。だから魏書に「島夷が朝貢してきやがったざまあwwwwww」って書かれても何ら反論ができない。この時点での南北和親の使者ってめっちゃ重要な役目帯びてたでしょうに、その辺がまったく見えないんですよね。


ちなみに399年は後秦が東晋から洛陽を奪った年。要はこの頃後秦と東晋がバチバチだったわけです。その三年後の402年に柴壁の戦いが起こるわけで、東晋が北魏に送った和親の使者って確かに結構大きな仕事もしているわけなんですよね。のこしとけやマジで晋書。それともあれか、そうした外交努力の成果が柴壁に繋がったから柴壁って晋書にまともに載せられてないとか(※ほぼ魏書でしかその戦いの詳細が確認できない)? あ、そう妄想すると楽しいかもしれないですねこれ。

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