東晋6 王恭横死
桓玄らは長江を渡るなり
この歳の冬、
翌年夏、司馬德宗は再び朝貢の使者を遣わせた。
王恭遣劉牢之為前鋒,次于竹里。初,道子之謀恭也,啗牢之以重賞,牢之斬恭別帥顏延、延弟強,送二級於謝琰。琰與牢之俱進襲恭,恭奔于曲阿,為湖浦尉所執,送建業。尚之與庾楷子鴻戰于牛渚,斬鴻前鋒將殷萬,鴻遁還歷陽。尚之猶不敢濟。桓玄、佺期奄至橫江,尚之等退,恢之所領外軍皆沒。玄等徑造石頭,仲堪繼在蕪湖,建業震駭。道子殺恭於倪塘。桓玄等於是走還尋陽。
是年冬,德宗遣使朝貢,并乞師請討姚興。二年夏,德宗又遣使朝貢。
(魏書96-6)
まぁ正直上のほうはいつもの速報って感じだしどうでもいいんですが、やっぱり重要なのはラスト二行ですよね。398年冬、399年夏に東晋が北魏に遣使。この事績って晋書では、一通り見回した感じだと一切載っていません。何故か。「北狄なんぞに頭を下げた証拠を史書に残すわけにはいかない」。マジで東晋人のメンタルクソカスですね。本当は対等、……と言うところまではみていないでしょうけれど、ある程度の仲を保っておかなければいけない相手だと見做していたくせに、そこを自分たちの公式記録には一切残さないわけです。だから魏書に「島夷が朝貢してきやがったざまあwwwwww」って書かれても何ら反論ができない。この時点での南北和親の使者ってめっちゃ重要な役目帯びてたでしょうに、その辺がまったく見えないんですよね。
ちなみに399年は後秦が東晋から洛陽を奪った年。要はこの頃後秦と東晋がバチバチだったわけです。その三年後の402年に柴壁の戦いが起こるわけで、東晋が北魏に送った和親の使者って確かに結構大きな仕事もしているわけなんですよね。のこしとけやマジで晋書。それともあれか、そうした外交努力の成果が柴壁に繋がったから柴壁って晋書にまともに載せられてないとか(※ほぼ魏書でしかその戦いの詳細が確認できない)? あ、そう妄想すると楽しいかもしれないですねこれ。
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