游明根他 文人たち

游明根ゆうめいこん、字は志遠しえん廣平郡こうへいぐん任県じんけんの人だ。祖父は游鱓ゆうせん後燕こうえん慕容熙ぼようきのもとで樂浪太守らくろうたいしゅとなった。父は游幼ゆうよう北燕ほくえん馮跋ふうばつ廣平太守こうへいたいしゅとして仮配属を受けた。和龍かりゅうが陥落すると游明根は故郷に戻った。游雅ゆうがよりの推挙を受け、拓跋燾たくばつとう中書學生ちゅうしょがくせいに抜擢した。慎ましく欲少なく、経典をすべて学んだ。拓跋晃たくばつこう監國かんこくとなると、公孫叡こうそんえいとともに主書となった。520 年 8 月、69 歳で死亡した。


劉芳りゅうほう、字は伯文はくぶん彭城ほうじょう人だ。かん楚元王そげんおう劉交りゅうこうの子孫である。六代前の先祖は劉訥りゅうとつしん司隸校尉しれいこういとなった。祖父は劉該りゅうがい劉義隆りゅうぎりゅうの時代に征虜將軍せいりょしょうぐん青徐二州刺史せいじょにしゅうししを勤めた。父の劉邕りゅうよう劉駿りゅうしゅんの時代に兗州長史えんしゅうししであった。劉芳の時代に北魏に亡命した。



鄭羲ていぎ、字は幼驎ようりん滎陽郡けいようぐん開封県かいほうけんの人で、將作大匠しょうさくだいしょうである鄭渾ていこんの八代あとの子孫である。曾祖父は鄭豁ていかつ慕容垂ぼようすいのもとで太常卿たいじょうけいとなった。父の鄭曄ていようは出仕せず、長樂ちょうらく潘氏はんしの娘をめとり、六人の子を産んだ。ほぼみな志高く気概にあふれていたが、中でも末っ子の鄭羲はその文學の才能で抜きん出ていた。加冠後間もなくして秀才しゅうさいに挙げられ、尚書しょうしょ李孝伯りこうはくがその娘をめあわせた。492 年に死亡した。




游明根,字志遠,廣平任人也。祖鱓,慕容熙樂浪太守。父幼,馮跋假廣平太守。和龍平,明根乃得歸鄉里。游雅稱薦之,世祖擢為中書學生。性貞慎寡欲,綜習經典。及恭宗監國,與公孫叡俱為主書。正光元年八月卒,年六十九。

劉芳,字伯文,彭城人也,漢楚元王之後也。六世祖訥,晉司隸校尉。祖該,劉義隆征虜將軍、青徐二州刺史。父邕,劉駿兗州長史。

(魏書55-1)


鄭羲,字幼驎,滎陽開封人,魏將作大匠渾之八世孫也。曾祖豁,慕容垂太常卿。父曄,不仕,娶于長樂潘氏,生六子,粗有志氣,而羲第六,文學為優。弱冠舉秀才,尚書李孝伯以女妻之。高宗末,拜中書博士。太和十六年卒。

(魏書56-1)




ご先祖が拓跋珪現役時代のひとたち、ともなると、まー当たり前ですが薄い薄い。いやきっとあなた方も掘れば楽しいんでしょうけど、ごめんね?


というわけで見ておきたいのは劉芳の系譜です。

劉波1  淝水後の北土を

https://kakuyomu.jp/works/16817139559045607356/episodes/16817330651562957491

ここに出てくる劉隗りゅうかいが、劉訥の甥。割と近い関係ですね。

そして劉該、元嘉げんか年間のどのタイミングかにもよりますが、青徐二州刺史という事はド最前線です。こんなところをまかされるということは、かなりの信任を得ていた家門であると言えそう。宋書にいるのかしら。今調べてみたところ文帝末頃に劉興祖りゅうこうそ青冀せいき二州刺史になっていました。こちらは劉裕の母系はとこ筋。となるとこの系統に接点があるようにも思えないので、まぁ劉芳が先祖の官歴を盛って語り、北魏側も(そんなん別になんだっていいから)採用した、となるんでしょうかね。

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