李曽 趙郡の名長官
門人で郡治に参与すべきなのではないか、と勧めるものもいたのだが、李曽はこう答えている。
「功曹とは確かに地元の名士が選ばれるものではある。しかし、結局のところは郡の官吏なのだ。このわたしが人に仕えるのなぞ、どれだけ難しきことか」
後に
「
そうしてついには家に戻り、再び講義活動に精を出した。
隣の郡のものたちは、趙の統治をこう歌う。
「趙郡の鹿とさえ偽れば、
常山の粟にすら勝てるのだ」
盗賊たちより憚られること、このようであった。
死亡すると
李曾,趙郡人也。少治鄭氏禮、左氏春秋,以教授為業。郡三辟功曹不就,門人勸之,曾曰:「功曹之職,雖曰鄉選高第,猶是郡吏耳。北面事人,亦何容易。」州辟主簿,到官月餘,乃歎曰:「梁叔敬有云:州郡之職,徒勞人耳。道之不行,身之憂也。」遂還家講授。太祖時,徵拜博士,出為趙郡太守,令行禁止,劫盜奔竄。太宗嘉之。并州丁零,數為山東之害,知曾能得百姓死力,憚不入境。賊於常山界得一死鹿,謂趙郡地也,賊長責之,還令送鹿故處。隣郡為之謠曰:「詐作趙郡鹿,猶勝常山粟。」其見憚如此。卒,贈平南將軍、荊州刺史、栢仁子,諡曰懿。
(魏書53-1)
州郡之職,徒勞人耳。
梁竦は
大丈夫居世,生當封侯,死當廟食。如其不然,閑居可以養志,詩書足以自娛,州郡之職,徒勞人耳。
大丈夫の生涯とは侯に封じられ、死後には廟にて祀られるものだ、と言う。ありえんこと、ありえんことだ。閑居し心を養い、詩書を読むことを楽しんでおればそれで良いのだ。州郡の職なぞ、徒勞の人のやることに過ぎまい。
梁竦は自分の境遇から心底嘆じてそうだが、李曾には「県治や郡治の官吏なぞオレ様ほどの人材を有効活用させる場ではない! 太守の椅子ぐらいもってこい!」ぐらいの自認の韜晦として機能していそうな気配もしなくはない。まぁ実際当代最強の太守のひとりとして君臨したようですからその自認は正しかった、ってことになるわけですが。
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