李曽   趙郡の名長官

李曾りそう趙郡ちょうぐんの人だ。幼い頃より鄭玄ていげんのなした禮記らいき左氏春秋さししゅんじゅうを良く学び、その内容の講義を生業としていた。趙郡からは三度功曹こうそうとすべく招聘したが、応じることはなかった。


門人で郡治に参与すべきなのではないか、と勧めるものもいたのだが、李曽はこう答えている。

「功曹とは確かに地元の名士が選ばれるものではある。しかし、結局のところは郡の官吏なのだ。このわたしが人に仕えるのなぞ、どれだけ難しきことか」


後に冀州きしゅうから主簿しゅぼとしての招聘を受けたため出仕。しかしひと月ほど経ったところで、言う。

後漢ごかん梁竦りょうそくも言っているではないか、州郡の職は徒勞ばかりだ、と。治道も調わぬのであれば、この身が危ぶまれるのみよ」

そうしてついには家に戻り、再び講義活動に精を出した。


拓跋珪たくばつけいの時代に博士はくしとして招聘を受け、後に趙郡太守ちょうぐんたいしゅとして故郷に戻った。その政令、禁令は厳密に運用がなされ、強盗たちは趙郡から逃げ出した。拓跋嗣たくばつしはその厳正なる統治を祝賀した。


并州へいしゅう丁零ていれいは、しばしば太行山脈たいこうさんみゃくを越え山脈東部の平野部を襲撃して回っていた。しかし趙郡だけは太守である李曾が防衛のために郡民らに死力を尽くさせることができたため、ついには恐れて立ち入ろうとしなくなった。賊が常山じょうざんと趙郡との境界近くで鹿の死体を得た時、もしその場所が趙郡に属していると判断した場合には、賊の長は拾ってきた者を責め、鹿を元の場所に戻してくるよう命じるほどであった。


隣の郡のものたちは、趙の統治をこう歌う。

「趙郡の鹿とさえ偽れば、

 常山の粟にすら勝てるのだ」

盗賊たちより憚られること、このようであった。


死亡すると平南將軍へいなんしょうぐん荊州刺史けいしゅうしし栢仁子はくじんしが追贈され、と諡された。




李曾,趙郡人也。少治鄭氏禮、左氏春秋,以教授為業。郡三辟功曹不就,門人勸之,曾曰:「功曹之職,雖曰鄉選高第,猶是郡吏耳。北面事人,亦何容易。」州辟主簿,到官月餘,乃歎曰:「梁叔敬有云:州郡之職,徒勞人耳。道之不行,身之憂也。」遂還家講授。太祖時,徵拜博士,出為趙郡太守,令行禁止,劫盜奔竄。太宗嘉之。并州丁零,數為山東之害,知曾能得百姓死力,憚不入境。賊於常山界得一死鹿,謂趙郡地也,賊長責之,還令送鹿故處。隣郡為之謠曰:「詐作趙郡鹿,猶勝常山粟。」其見憚如此。卒,贈平南將軍、荊州刺史、栢仁子,諡曰懿。


(魏書53-1)



州郡之職,徒勞人耳。

梁竦は跋扈将軍ばっこしょうぐんとして有名な梁冀りょうきの曾祖父に当たる。娘が明帝めいていの皇后になるなど重鎮と呼んでいい存在だが、兄の罪に連座して流罪を喰らったり、また最終的に宮廷内の権勢争いに巻き込まれ獄死している報われない人。はじめの流罪からいちど洛陽らくように帰還した際、洛陽での暮らしを楽しまず、高楼に上ってこう言っている。


大丈夫居世,生當封侯,死當廟食。如其不然,閑居可以養志,詩書足以自娛,州郡之職,徒勞人耳。

大丈夫の生涯とは侯に封じられ、死後には廟にて祀られるものだ、と言う。ありえんこと、ありえんことだ。閑居し心を養い、詩書を読むことを楽しんでおればそれで良いのだ。州郡の職なぞ、徒勞の人のやることに過ぎまい。


梁竦は自分の境遇から心底嘆じてそうだが、李曾には「県治や郡治の官吏なぞオレ様ほどの人材を有効活用させる場ではない! 太守の椅子ぐらいもってこい!」ぐらいの自認の韜晦として機能していそうな気配もしなくはない。まぁ実際当代最強の太守のひとりとして君臨したようですからその自認は正しかった、ってことになるわけですが。

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