諸司馬  劉裕より逃れて

司馬景之しばけいし、字は洪略こうりゃくしん汝南王じょなんおう司馬亮しばりょうの子孫だ。拓跋嗣たくばつしの時代に帰属し蒼梧公そうごこうに封じられ、征南大將軍せいなんだいしょうぐんを加えられた。清直にして節度あり、拓跋嗣よりも大いに重んじられた。死亡すると汝南王が追贈された。子の司馬師子しばししが爵位を継承した。

司馬景之の兄は司馬準、字を巨之きょしといった。423 年頃に三千世帯あまりを引き連れ、北魏に帰属。このとき拓跋嗣は虎牢ころうに出ていたため引見、寧遠將軍ねいえんしょうぐん新蔡公しんさいこうとし、また仮の相州刺史しょうしゅうししとした。拓跋嗣が平城に戻るとき、共に帰還。後に廣寧太守こうねいたいしゅに任じられた。近くの者とともにあることを悦び、遠方のものがやって来ることを歓迎した。清儉さで大いに讃えられ、その暮らしぶりは拓跋燾からも祝賀され、布六百匹が下賜された。後に平遠將軍、密陵侯みつりょうこうに降格となった。454 年頃に死亡、子の司馬安國しばあんこくが爵位を継いだ。



司馬叔璠しばしゅくはん司馬孚しばふ、つまり司馬懿しばいの弟の子孫だ。父は司馬曇之しばどんし東晋とうしん安帝あんていの時代に河間王かかんおうに封じられていた。桓玄かんげん劉裕りゅうゆうが司馬氏宗族を脅かしたため、司馬叔璠は兄の司馬國璠しばこくはんとともに南燕なんえん慕容超ぼようちょうのもとに亡命した。後に西の後秦こうしん姚興ようこうのもとに。劉裕が姚泓ようおうを滅ぼすと、今度は北の赫連勃勃かくれんぼつぼつのもとに逃げ込んだ。拓跋燾が統萬城とうまんじょうを制圧したとき、兄弟揃って北魏に帰属した。

司馬國璠は淮南公わいなんこうに封じられるも、子がないまま死亡、爵位は抹消となった。司馬叔璠は安遠將軍あんとうしょうぐん丹楊侯たんようこうに任じられ、死亡した。



司馬天助しばてんすけ、じゃなかったしばてんじょ。東晋安帝のいとこにあたる司馬元顯しばげんけんの子を自称した。劉裕が皇帝として立ったとき、劉宋より亡命、帰順した。平東將軍へいとうしょうぐん青徐二州刺史せいじょにしゅうしし東海公とうかいこうに任じられた。司馬天助はおおくの義士を招いて率い、劉宋の東平とうへい濟北さいほくの二郡、及び砦を襲撃。また劉宋将の閭萬齡りょばんれいの軍を破り、この攻撃の前後に多くの捕虜を獲得した。侍中じちゅう都督ととく青徐兗せいじょえん三州諸軍事さんしゅうしょぐんじ征東將軍せいとうしょうぐん青兗せいえん二州刺史にしゅうししとなり、東海公であることはもとのままとされた。

442 年、司馬文思しばぶんしらと共に南伐に従軍。帰還すると今度は拓跋燾に従い北伐、陣中にて死亡した。




司馬景之,字洪略,晉汝南王亮之後。太宗時歸闕,爵蒼梧公,加征南大將軍。清直有節操,太宗甚重之。卒,贈汝南王。子師子襲爵。景之兄準,字巨之。以泰常末,率三千餘家歸國。時太宗在虎牢,授寧遠將軍、新蔡公、假相州刺史。隨駕至京。出除廣寧太守。悅近來遠,清儉有稱。世祖嘉之,賜布六百匹。後降號為平遠將軍,改為密陵侯。興光初卒。子安國襲爵。

司馬叔璠,晉安平獻王孚之後也。父曇之,司馬德宗河間王。桓玄、劉裕之際,叔璠與兄國璠北奔慕容超。後西投姚興。劉裕滅姚泓,北奔屈丐。世祖平統萬,兄弟俱入國。國璠賜爵淮南公。卒,無子,爵除。叔璠,安遠將軍、丹楊侯。卒。

司馬天助,自云司馬德宗驃騎將軍元顯之子。劉裕自立,乃來歸闕。除平東將軍、青徐二州刺史、東海公。天助招率義士,欲襲裕東平、濟北二郡及城戍,又破裕將閭萬齡軍,前後多所虜獲。拜侍中、都督青徐兗三州諸軍事、征東將軍、青兗二州刺史,公如故。真君三年,與司馬文思等南討。還,又從駕北征。在陣歿。


(魏書37-3)




突然ぽっと現れる自称司馬元顕の息子司馬てんすけが異常に強い。待遇からしてみても、ただ事でない人器の発揮のしかたしてる。どういうことなんだぜ。こう言う人物の東晋時代の動きをもっと知りたいもんです。いやあ、この巻マジで楽しい!

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