崔浩31 涼への徙民建議

太原たいげん人の閔湛びんたんちょう人の郄標げきひょうは日々崔浩さいこうに阿諛追従を繰り返していた。彼らは崔浩に石碑を立て、そこに国史の内容や五經についての注釈を載せるべきだ、とした。崔浩も賛成し拓跋晃たくばつこうに諮ると、さくっと承認がおりた。このため天郊てんこうの東三里のところに百三十步四方の用地が確保され、三百万もの費用がかけられ、石碑群が完成した。



拓跋燾たくばつとう河西かさいに狩りに出たとき、崔浩を呼び寄せ、現在議論となっている軍事計画について語らせた。


崔浩は以下のように上表した。

「昔、かん武帝ぶてい匈奴きょうどの強盛を憎み、涼州りょうしゅうに五郡を設置、西域との連絡口とし、合わせて農業を奨励、資源を蓄えさせ、匈奴を攻め滅ぼすための資源を確保させました。その上で東西からの攻撃が計画されたのです。このため漢はさほど疲弊せずに匈奴の勢力を弱らせ、後世には遂に臣下としての入朝をさせ果せました。

 昔、涼州りょうしゅうを平定したとき、臣は柔然じゅうぜんを平定しきれておらぬ以上軍役を控えるわけにもゆかぬのであれば、涼州の民を平城へいじょうの労働力として連れ帰るべきではない、漢のケースを振り返っても、これが優れた計略である。もし連れ出してしまえば土地を守る兵力もなく、いくら守將を置いてみたところで、国境付近の小競り合いならばともかく、柔然に大挙して攻めてこられれば、到底軍資もおぼつかなくなる、と愚考、陛下に申し上げました。

 当時陛下はこうした措置があまりにも遠回りに過ぎるとしてお退けになりましたが、今なお臣に意見をお募りになるのであれば、過日の建議を改めて申し上げるより他ございませぬ。勢力ある大家のうち移住希望者を募り、涼の人口や物資を充当してさえおけば、いざ柔然討伐の軍を興すとき、東西よりの軍で挟み撃ちと出来ます。さすれば柔然撃滅も成し遂げられましょう」




著作令史太原閔湛、趙郡郄標素諂事浩,乃請立石銘,刊載國書,并勒所注五經。浩贊成之。恭宗善焉,遂營於天郊東三里,方百三十步,用功三百萬乃訖。

世祖蒐于河西,詔浩詣行在所議軍事。浩表曰:「昔漢武帝患匈奴強盛,故開涼州五郡,通西域,勸農積穀,為滅賊之資。東西迭擊。故漢未疲,而匈奴已弊,後遂入朝。昔平涼州,臣愚以為北賊未平,征役不息,可不徙其民,案前世故事,計之長者。若遷民人,則土地空虛,雖有鎮戍,適可禦邊而已,至於大舉,軍資必乏。陛下以此事闊遠,竟不施用。如臣愚意,猶如前議,募徙豪強大家,充實涼土,軍舉之日,東西齊勢,此計之得者。」


(魏書35-31)




バキバキにフラグ立ち過ぎわろた。


柔然まわりは、すでに崔浩の建言を二度退けて二度失敗しています。そのうえで今「お前昔に俺の提案退けやがったよな? そのおかげで今なお柔然に煩わされ続けてるわけだ。そろそろいいかげんにしろよ」と上表、つまり公開される書面にて書かれる。まぁプライド損ねますよねこれ。前々から割と「崔浩の正しさ」に拓跋燾はやり込められられてる感があり、大国を統べる王として、一体どれほど心に逆らうこと無く聞き遂げきれたのか。魏書の記述だけでも、拓跋燾の内心に憎しみが募っていてもおかしくなさそうな気がします。


……というエピソードの前段に、国史の獄に繋がる内容が来ています。もうなんていうか、拓跋燾がいざ平城に戻ったときに何が起こるか、という感じです。


崔浩死亡まであと二話! なお死亡後ももうちょっとだけ続くんじゃ!

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る