李先2  学者将軍

李先りせん拓跋儀たくばつぎぎょう平定軍に従軍、義臺ぎだい確保し、慕容驎ぼようりん軍を破った後、中山ちゅうざん平定軍に合流した。李先は常に軍略を進言、その進言によって各地攻略に貢献した。拓跋珪たくばつけいとともにだいに帰還したところで、尚書右中兵郎しょうしょうちゅうへいろうに任じられた。


柔然じゅうぜんがしばしば北魏との国境を侵犯。拓跋珪と李先とで、以下のようなやり取りが交わされた。

「柔然を討ちたく思うのが、卿はいかに考える?」

「かの者らは天命も知らず、ちょろちょろと辺境を荒らし、略奪や物見を行っては地域の民を脅かしております。陛下の神武や威德はすでに近隣にも大きく振るっておりますところ。ならばここで兵を立ち上げ、征伐なされば、必ずや打ち破れましょう」

こうして拓跋珪は北伐を決行、柔然を大破した。李先には奴婢三人、馬牛羊五十頭が下賜された。七兵郎しちへいろうに転じ、博士はくし定州ていしゅう大中正だいちゅうせいに移った。


またあるとき、拓跋珪と以下のやり取りを交わしている。

「天下でいずれの書が最も先人の神智を我が身に宿すのに優れておろうか」

「經書あるのみにございます。三皇五帝の統治教化の精髄こそが、王者の神智を補うに値しましょう」

「天下の書籍はおよそいかほど存在しておろうか? 朕はそれらを集積したく思うのだ、さすればいかほどの智を備えられようかな欲集之,如何可備?」

「三皇の劈頭、伏羲ふくぎによって創立された王者の統治は、帝王が継承してまいりました。今に至り、代々國記が伝えられており、また天文や祕緯の書については数え切れるものでもございませぬ。とは言え陛下が心底それらを欲され、お集めになるのであれば、天下の諸州郡縣に探索の上送るよう厳命を言い渡すのが良いでしょう。さすれば主の意にかなう書籍を集めるのも難しくはないと思われます」

このため拓跋珪は書籍集積を国内に命じ、これによって多くの書籍が平城に集まった。




太祖後以先為丞相衞王府左長史。從儀平鄴,到義臺,破慕容驎軍,回定中山,先每一進策,所向克平。車駕還代,以先為尚書右中兵郎。太祖謂先曰:「今蠕蠕屢來犯塞,朕欲討之,卿以為何如?」先曰:「蠕蠕不識天命,竄伏荒朔,屢來偷竊,驚動邊民。陛下神武,威德遐振,舉兵征之,必將摧殄。」車駕於是北伐,大破蠕蠕。賞先奴婢三口,馬牛羊五十頭。

轉七兵郎,遷博士、定州大中正。太祖問先曰:「天下何書最善,可以益人神智?」先對曰:「唯有經書。三皇五帝治化之典,可以補王者神智。」又問曰:「天下書籍,凡有幾何?朕欲集之,如何可備?」對曰:「伏羲創制,帝王相承,以至於今,世傳國記,天文祕緯不可計數。陛下誠欲集之,嚴制天下諸州郡縣搜索備送,主之所好,集亦不難。」太祖於是班制天下,經籍稍集。


(魏書33-12)




李先さん、読めば読むほど大物なんですけど。なんでこんな後ろのほうに追いやられてんだ。


ところで先日、李憑『北魏平城時代』から卓抜珪幼年期の動きをピックアップしました。魏書に載る内容ではまるで後燕旧臣との縁が見えないので、こちらにも乗っけておきます。


太元元年(376年)、代滅亡。拓跋什翼犍と共に長安に身柄が移される。またこのとき拓跋什翼犍に縄を手ずから掛けたことが不孝であったとされ、蜀に配流される。

長安にて拓跋什翼犍が死亡。後継者である拓跋珪の措置を燕鳳が「長安に戻し、のちの代の支配者として育成すべし」と苻堅に論じる。

太元8年(383年)、淝水の戦いで苻堅が大敗。苻堅を護衛し長安に一度帰還した慕容垂に合流し、中山に移動した。

登国元年(386年)、代北にて代王即位。

ここで拓跋什翼犍の死亡については、魏書における説「魏の滅亡に先立ち死亡した」を退け、晋書等が提唱する「長安に連行され当地にて客死した、没年不詳」が採用されている。続柄的には祖父となるが、拓跋寔死亡後賀氏が拓跋什翼犍の妻とされたため、祖父でありながら父という立場になった、と推定されている。

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