張蒲1  慰喻し降す

張蒲ちょうほ、字は玄則げんそく河內郡かだいぐん脩武県しゅうぶけんの人だ。もとの名は張謨ちょうもと言ったのだが、後に改名した。かん太尉たいいである張延ちょうえんの子孫である。父は張攀ちょうはん慕容垂ぼようすいのもとで御史中丞ぎょしちゅうじょう兵部尚書ひょうぶしょうしょとなり、その清廉さで大いに称えられていた。


張蒲もそんな父の気風を引き継ぎ、文学史学に広く通じ、その率直ながらも慎ましやかな振る舞いにて知られるようになった。慕容寶ぼようほうのもとで陽平ようへい河間かかん二郡太守にぐんたいしゅ尚書左丞しょうしょさじょうに任じられた。


拓跋珪たくばつけい中山ちゅうざんを平定、旧後燕こうえんの官吏たちはその多くが品秩を降格とされたが、もとよりその名声が知られていた張蒲については、むしろ尚書左丞しょうしょさじょうとして取り立てられた。その勤務ぶりも清廉にして謹厳、そして方正。このため東部大人とうぶたいじんに転任、更には太中大夫たいちゅうたいふとなる。


拓跋嗣たくばつしが即位すると內都大官ないとだいかんとなり、泰昌子たいしょうしに封じられた。多くの刑罰の決裁に私情を挟むことはなく、公正と呼ばれた。


丁零ていれい翟猛雀てきもうじゃくが軍勢を率い、官吏や民をさらって白𡼏山はくかんざんに立てこもり、反乱を計画する。拓跋嗣は張蒲と長孫道生ちょうそんどうせいに命じ、討伐に向かわせた。ここで長孫道生らは直ちに現場入りし撃滅すべきと考えていたが、張蒲がいさめるようにいう。

「良民らが翟猛雀に従うのは、別に乱を楽しみたいからではございますまい。みな脅され、強引に従わされたのみにございます。今もし大軍を急行させれば、吏民がもし我らが元に帰りたいと願い出ようとも叶わずに終わりましょう。却って皆殺しとされることに怯え、翟猛雀に手を貸して官軍を退け、更には山の険しきを頼みとして別な不明の民を誑かして回ろうといたします。ならば先に説得の使者を送り、民のうちこれ以上翟猛雀に参与したくないと思うものの罪を問わぬようにすれば、民らは喜んでこぞり降ってまいりましょう」

長孫道生はまことおっしゃる通りと考え、拓跋嗣のもとに説得計画を提出した。拓跋嗣は張蒲の軍に先に進ませ、慰撫の説得をなすよう命じた。するとたちまち数千世帯が降伏、皆にはもとの戸籍を与えるよう約束。張蒲も彼らを取りまとめ、安心させた。翟猛雀とその参与者百人あまりは逃亡を図ったが、張蒲と長孫道生らが追撃をかけ、斬首。その首は平城へいじょうに送られた。




張蒲,字玄則,河內脩武人,本名謨,後改為蒲。漢太尉延之後。父攀,慕容垂御史中丞、兵部尚書,以清方稱。蒲少有父風,頗涉文史,以端謹見知,為慕容寶陽平、河間二郡太守,尚書左丞。太祖定中山,寶之官司敍用者,多降品秩。既素聞蒲名,仍拜為尚書左丞。天興中,以蒲清謹方正,遷東部大人。後拜太中大夫。太宗即位,為內都大官,賜爵泰昌子,參決庶獄,私謁不行,號為公正。

泰常初,丁零翟猛雀驅逼吏民入白𡼏山,謀為大逆。詔蒲與冀州刺史長孫道生等往討。道生等欲徑以大兵擊之,蒲曰:「良民所以從猛雀者,非樂亂而為,皆逼凶威,強服之耳。今若直以大軍臨之,吏民雖欲返善,其道無由。又懼誅夷,必并勢而距官軍,然後入山恃阻,誑惑愚民。其變未易圖也。不如先遣使喻之,使民不與猛雀同謀者無坐,則民必喜而俱降矣。」道生甚以為然,具以奏聞。太宗詔蒲軍前慰喻。乃下數千家,還其本屬,蒲皆安集之。猛雀與親黨百餘人奔逃。蒲與道生等追斬猛雀首,送京師。


(魏書33-5)




ほんに後燕からの帰属組おもしれーなぁ……ただ彼らは北魏の創立に関われてないから、国史としてはどうしても優先度が低くなってしまうのですよね。目立たないのがもったいないが、仕方ない。

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