屈遵   真っ先に帰属

屈遵くつじゅん、字は子皮しひ昌黎郡しょうれいぐん徒河県とかけんの人だ。博學多藝にして、当代の顕名として広く知られていた。慕容永ぼようえいのもとで尚書僕射しょうしょぼくしゃ武垣公ぶかんこうに任じられていた。慕容永が滅ぶと、慕容垂ぼようすいから博陵令はくりょうれいに任じられた。


拓跋珪たくばつけい中山ちゅうざんに向けて打って出、魯口ろこうにまで進出。このとき博陵太守はくりょうたいしゅ申永しんえい黄河こうがの南に逃亡、高陽こうよう太守たいしゅ崔宏さいこうは東方は渤海ぼっかい沿岸の海濱かいひんにまで逃げ、それらの城に所属していた者たちもまた、副官レベルのものですら多くが逃げ去った。


その中にあり、屈遵は配下民衆に向け、言う。「先ごろに慕容宝ぼようほうの軍が大敗し、今年また慕容垂が遠征から帰還もできずに終わった。天はえんを見捨て、人にもまたこの国を支えるものがない。魏帝ぎていの神武はまるで天命を授かったかのよう、その寬仁さで多くの帰服者を受け入れ、百万の兵を率い、その号令が轟けば兵らはさながらひとつの生き物であるかのよう。これはいんとうおうしゅう武王ぶおうにも匹敵する軍容である、と言える。わしは天命に帰そうと思う。お前らは銘々がおのれの信念に従い、努まれるが良い。この嘉運に巡り合わずば、その先には災いしかなかろうがな」

そう言って、ついには拓跋珪に帰服した。


拓跋珪のもとにも屈遵の名声は届いていた。このため手厚い禮遇にて迎えられた。中書令ちゅうしょれいに任じられ、帝王の言葉を出納するようになり、あわせて祭礼文を総督した。中山を落としたところで下蔡子べんさいしに封じられ、拓跋珪とともに平城へいじょうに出向き、そこで死亡した。71 歳であった。




屈遵,字子皮,昌黎徒河人也。博學多藝,名著當時。為慕容永尚書僕射,武垣公。永滅,垂以為博陵令。太祖南伐,車駕幸魯口,博陵太守申永南奔河外,高陽太守崔玄伯東走海濱,屬城長吏率多逃竄。遵獨告其吏民曰:「往年寶師大敗,今茲垂征不還,天之棄燕,人弗支也。魏帝神武命世,寬仁善納,御眾百萬,號令若一,此湯武之師。吾欲歸命,爾等勉之,勿遇嘉運而為禍先。」遂歸太祖。太祖素聞其名,厚加禮焉。拜中書令,出納王言,兼總文誥。中原既平,賜爵下蔡子。從駕還京師,卒,時年七十。


(魏書33-4)




屈遵さんこれ、部下から拓跋珪への帰服猛反対されてますね。口ぶりからかなりキレてそう。そりゃまぁ参合の虐殺があるとねぇ。王建おうけんさんは見事に北魏の中原攻略の難易度を上げました。とはいえ、「あれが北魏将のほぼ総意だった」とも書かれている以上、民情的に正しいのは申永や崔宏なのは間違いないんですよね。むしろ屈遵さんがおかしい。けど、結果は逆だった。ベットのしかたがドチャクソに難しい時代すぎる。

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