日々を綴るモノローグ

やまぴかりゃー

第一話「春眠、安らぎを覚えて」




 いきなりだが、まず初めに自己紹介を始めさせていただこう。



 生来、日向ひなたつづるという少女は文章というものが好きであった。


 それは小説に限った話ではなく、漫画の台詞や歌詞、果ては広告のキャッチコピーなどにも興味が湧くこともあった。

 ジャンルは問わず、ただ何と無しに文字の羅列を眺めているのも好きだった。

 特に婉曲表現や回りくどい言い回しが好きで、成長するにつれそれらを理解して自分のものにできた時が幸せであった。

 家には親が長年かけて埋めた立派な本棚があり、読み物に困ることはなかった。

 加えて家にいる時間が長い人間だったから、幼い頃から文字に囲まれて過ごして来た自覚は多少はある。

 だからとは一概に言えないが、幼い頃から時間をかけて「自身で物書きをしてみたい」という気持ちが自然と培われたのかもしれない。


 初めて文章というものを書いてみたのは、小学4年生の時だった。

 自身の持ち得る言葉を駆使して、四苦八苦しながら書いたのを覚えている。

 無論それは拙いもので、それもただの夏休みの絵日記の下半分で繰り広げられる陳腐な日常の文章化ではあったが、やっとの思いで35ページ目を書き終えた時、確かに私の心は処女作を書き上げた作家になっていた。

 

 そんなこんなで生きてきたせいか、私にはある癖がついてしまった。



 それは「脳内で小説を綴ること」である。


 

 目の前で起きている状況に対して、その場で対応する自分と俯瞰して見下ろす自分の2種類がいるのだ。

 それは別に口に出すわけではないし、常に脳内で考えているわけではない。

 やることもなく手持ち無沙汰な時や、冷静さを取り戻したい時などによくやる節がある。


 ちなみに当たり前の話だが、その脳内小説を読むことができる人間は、筆者である私を除いて他には誰もいない。

 言わずもがなこれは私の脳内で完結しているものであって、観測者など存在しないからである。


 まぁそうはいったものの、その脳内で編まれたを、私はこうして今現在ひたすらに分厚い日記帳に書き著しているのだが……。

 つまり、これで間接的に私の脳内小説を第三者が読める可能性は0ではないということになってしまった。

 ただ、もし仮にこれを誰かに読まれることがあったとしよう。


 その事実を私が知ることは決してない。


 読まれたら困るというか、その時点でお終いというか。

 別に恥ずかしいというわけではない。

 ただ、読まれたらお終いなだけの話。

 まぁもしうっかり読まれることがあるとすれば、それがどんな話であれ原因は私に帰責するのだが、基本的にこの日記帳が誰かに読まれることはないと思っていただいて結構だ。

 その理由については、私しか読む人間がいない(という想定な)のだから、著す必要もないと判断させていただく。


 一つ言えることがあるとすれば、私はこの「小説のような何か」を誰にも読まれないようにするために日々懸命に過ごしている、といったところか。

 わけがわからないよ、と思ったのならその感性は正常だ。

 ただ、今これを読んでいるあなたはその理由も理解しているのであろうか。

 私から聞いたか、又は何かを察したか、或いは───。


 ……まぁ意味もわからず読み進められても困るので、その時は私に直接理由を尋ねてもらって構わない。

 答えられるか否かはその時の私次第だし、そもそも読まれる予定ではないのだが……。


 何はともあれ、私は「誰かに読んでもらうために書いていることを否定はしない」が、「誰かに読んで欲しいために書いているわけではない」という一見矛盾しているような事情を抱えながら書き著している、ということを何となく頭の片隅に入れておいていただければ結構だ。


 恐らく、この先この事情に触れることもないのだろうけれど。



 さて、話は変わって先に述べた「綴る」というフレーズについてだが、これは私の名前が「つづる」だからそのような表現をしたのかと問われれば、私は渋々頷かざるを得ないのだろう。

 という言葉は私の中では至極身近なものであり、世間が思うような少し洒落た言い方というイメージは一切ない。

 しかしもし私の名前が「綴」ではなかった場合、私は「脳内で小説を執筆すること」という表現をしていたのかもしれない。

 私の名前が「かく 読子よむこ」などという珍妙な名前であれば、「書くこと」「読むこと」などと表現した可能性だってある。

 まぁどんな表現をするにせよ、私にはちょっとした変な癖があるということを覚えておいてもらいたい、というだけの話である。


 さて、端的に私の特徴について話をさせてもらったが、何故そんな説明をいきなりしたのか。

 それはこれがいわば「第一話」のようなものだからである。

 私という存在についてまずは大まかに知ってもらい、そこから物語が展開していく。

 そんな何かがスタートするような雰囲気を醸し出してみてはいるが、事実これは始まりであるのだ。


 一体何が始まるんです?と聞きたそうな読者のために、特に溜めずに教えて差し上げよう。



 これから始まるのはそう、人生の華である「高校生活」である!



 嗚呼、新たな生活の始まり。

 雑に題するなら「日向綴・高校生編」である。

 故に現在は物語の冒頭も冒頭であり、人物紹介が改めて必要であったという訳だ。

 「誰に必要なのか」と誰かに問われれば、私はこう答えるだろう。


 読み手など居ないのだから、そもそも質問など存在しない。

 つまり答えもまた存在しないのだ、と。



 そんな私は、現在登校の真っ最中である。

 無論誰が隣にいるわけでもなく、一人ぽつぽつと10分ほど歩いて、気付けば駅前に到着していた。

 最寄駅の名前は薄場すすきばといい、周囲には閑静な住宅街が広がっている。

 閑古鳥の生息数では他に引けを取らない我らが薄場であるが、今をときめく若者には恐ろしく評判が悪い。

 駅周辺にはコンビニとスーパー、そしていくつかの薬局が点在している。

 ついこの間、薬局と薬局の間にあった本屋が薬局になった。

 嫌なオセロである。

 若者が集まれるところと言えばカラオケとハンバーガーチェーン店がここから少し離れたところにそれぞれがポツンと建っており、行き場を無くした学生達はその2か所をまるで避難所のように使っている。


 なにもない、がここにはあった。

 

 何事も物は言いようである。


『まもなく1番線に多木々たきぎ方面がまいります。危ないですから黄色い線の内側までお下がり下さい……』


 改札の近くでそんなアナウンスが聞こえてきた。

 狙ったわけではないが、私を迎えにきてくれたようでなんだかお得な気分になった。


「日頃の行い、かね」


 私はまだ人の少ない電車に乗り込み、端の席に腰を下ろして一息ついたのだった。



       ─・・・・─



 日枝ひえだ駅から10分ほど道なりに進めば、私がこれから3年間を過ごすであろう学舎まなびやが姿を現す。

 駅周辺には辛うじてロータリーや商店街、カフェなどの飲食店があるものの、その程度では隠しきれない田舎の雰囲気がそこかしこに漂っており、校舎もそんな雰囲気の住宅街を抜けた先に建っていた。

 特に何か面白みのある学校でもないので、これ以上言及することもないだろう。

 ただの築90年、共学にしてこれといって活躍する部活のない、紅楼こうろう西高等学校である。


 ……言及する必要はないが、他に話すこともないので暇潰しも兼ねて説明させてもらおう。


 この紅楼西高等学校は、文字通りここ紅楼区の西に位置する高校……ではなかった。

 驚くべきことにこの高校はその名前で西と大々的に謳っておきながら、紅楼区のやや東側に位置しているのだ。

 軽い詐欺である。

 ただそれには事情があるらしく、今から約80年前に起きた「副都心計画における都市再区分計画」というものがそれはもう大いに関係しているらしいのだが、それ以上の情報は闇に包まれているらしい。


 ……まぁ、知らないだけだけど。

 というか興味もなかった。


 そんな紅楼西高等学校、略して紅楼西高校、さらに略して紅校と略称に関しては中々のコストパフォーマンスを発揮する本校であるが、反面その規模は中々に大きい。

 約85㎢の広さを誇る敷地内には、だだっ広い校庭や体育館・プールは勿論のこと、テニスコートや陸上競技のためのトラック、屋内には100人以上が利用可能な食堂まで存在する。

 因みに偏差値は55程度だったはず。


 ……という情報を、私は受験前に送られてきた資料にて確認済みである。

 古来から「備えあれば嬉しいな」と言われてきたように、私は事前リサーチに念を入れた。

 そして悩みに悩んだ末この紅楼西高校を選んだ理由が、そこそこ広い図書室の存在である。


 正直広い校庭やプールがあろうと、イ〇バ物置より多い人数が座れる食堂があろうと、そんなことは些事に過ぎなかった。

 ただ一つ、そこそこ広い図書室の存在が私をここに入学させるに至ったのだ。

 別に他の高校の図書室事情に精通しているわけではないが、資料を見比べる限りはそこそこ広い、そう感じさせる広さなのだ。

 知の殿堂、かのアメリカ連邦議会図書館を彷彿とさせる要素など微塵も無い。

 ただ、狭いよりマシ程度の広さである。

 

 なお転居先に一番近かったという理由が動機の大部分を占めていたことについては、ここではあえて言及を避けさせてもらう。

 筆者が言及を避けさえすればもう誰にも話を蒸し返されることがないというのが、この小説の良い点であるといえよう。


 さて、話のキリが良いところで丁度正門の前へと到着した私であるが、ここで一度携帯の画面を確認する。

 おっと、つい携帯と表現してしまったが、こんな私でもスマートフォンぐらいは所有している。

 大方おおかた本の虫なんぞはパソコンやスマートフォンといった精密機械に疎いのであろうと思われがちだが、恐らくそんなことはない。

 仮にそんなことがあったとしても私は例外であり、ネットリテラシーはそこそこある方だと自負している。

 無論読書は紙派……なんて火種になるような話は置いておき、その画面には驚くべき数字が映っていた。


「7時……3分……」


 集合時間は8時半。

 時間前行動も、過ぎればただの奇行と化す。


「どうしたもんかね、こりゃあ……」


 私の小さな呟きは、春の生温い風に攫われて霧散した。


 ここで勘違いしていただきたくないのが、私という人間が簡単に時計を見間違えるようなトンチキ野郎───否、トンチキ少女ではないということである。

 友人との待ち合わせに遅刻したことは人生で片手で数えるほどしかないし、その理由も電車の遅延や体調不良によるものである。

 一度だけそれはもう存分に寝坊してしまったことがあるが、一度だけならばそれは成長に必要な糧であったと考えることもできよう。


 では、そんな優良少女が何故このような展開を迎えてしまっているのか。

 私はぴっちりと閉まっている正門の端に寄り、時間を遡ってその原因を探ってみることにしたのだった。


 まず、昨夜。

 私は夕飯を19時頃に食べ終え、軽くシャワーを浴びて直ぐに就寝した。

 


「……これだ」



 決まって原因というものは実に容易く見つかるものだ。

 それが己に起因するものであれば尚更となる。

 そして悲しきかな、それに反比例するように解決策は見つからないものである。

 それが世の常とはいえ、ソリューションという横文字が往々にして叫ばれる昨今において、この現実は受け入れ難いものがあった。

 

 つまり何が原因かといえば───



「早寝早起き、か……」


 

 今朝の私は正に清少納言のような心持ちで、やうやう白くなりゆく山際を窓から眺めていた。

 親よりも早起きした私は、いつもは作れない朝食を4人分作り、いつもは拝むことすら叶わない仏壇に手を合わせて、いつもは目を擦って寝ぼけている時間に外へと飛び出した。

 冷たい外気を浴びながら、私はおもむろに散歩を始めたのだ。


 何が私をそうさせたのだろうか。

 自分のことながら分からないものである。

 ただ、今朝は何故だかとても身体が軽く、なんでも出来そうな気になっていた。

 今となってはただの気まぐれにしか思えないが、あの早朝に外に出た時に感じる少しばかりの全能感は嫌いではなかった。


 そんな少しばかりの全能感に数分ほどで飽きて、私は特に何を思うわけでもなく高校へと向かった。

 確かそういった流れである。

 

 さて、話を現在いまに戻そう。

 私は今正門の脇に真顔で立っている訳だが、いかんせん門が開かないことには行動のしようがない。

 普段ならば朝練目的の生徒がもう登校してきているような時間だろうが、今日は言わばオリエンテーションの日。

 恐らく一年生しか登校しないのであろう、正門を開ける時間も遅くなっているようであった。

 ……憶測に次ぐ憶測で申し訳ないが、登校初日として目を瞑ってもらいたい。


「こんにちは」


 しかし一番初めに教室にいると、なんだか随分と気合が入っている奴だなんだと勘違いされそうな気がしてきた。

 無難に中間辺りを狙っていきたいものだが、何時ごろを目指すべきだろうか。

 

「おーい」


 もういっそこんなところでぼーっとしてないで、再び散歩と洒落込もうか。

 この辺りの地理も全く詳しくないし、時間も存分にあることだ。

 決して悪い選択ではなかろうて。


「ちょっと」


 しかしまぁ、私にはこのスマートフォンという超高性能マシンが付いている限り、迷うなどという愚かしい結果に至ることなどないのだが。

 そう、このiPone《アイポン》12sならね。


「ねぇってば」


「ひっ!?」



「わっ」


「あっ…………」



 ……誰かいた。



「ほんとに気付いてなかったの?」


「いや、まぁ……ははは」


 いつの間にか隣に立っていたソイツは不思議そうな顔をしてこちらを見ており、その長く伸びた黒髪はまるで妖怪の類かと錯覚させられる妖艶さを醸し出していた。

 身長は私と同じくらいで、その表情については───何故だか分からないが、もやがかかっているようで判然としない。

 ただ、ニコニコと笑っていることだけは確かである。

 そんなことより、と私は服装に目が行った。

 

「病院の……服?」


 彼女が着ていたのは、病院などで患者がよく着ている薄緑色の服だった。

 はて、なんて名前だったか。

 そもそも名前なんてあっただろうか。


 まぁ、別になんでもいいかと直ぐに納得した。

 そんな人もたまにはいるものだろう。

 

 それにしても気配を感じなかった。

 私自身、非科学的な存在については信じる云々以前にあまり興味がなかったのだが、今日を持って信じるサイドへと移行せざるを得ないのかもしれない。

 私の横にいつの間にか立っていたゴーストガールは、私の気も知らずにくすくすと笑っている。

 あまりにも突然現れるものだから、随分と情けない声を上げてしまった気がする。

 というか、何を笑っているのだ。

 こちとら危うく心臓が止まって死んでしまうところであったというのに。

 とはいえ───


「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしてて……」


 まずこちらから一言謝罪。

 悪くなくてもまず謝る。

 この咄嗟の対応力をなんとか駆使して、私は今までの人生をやり過ごしてきたのだ。


「こっちこそごめんね、びっくりさせちゃった」


 なるほど素直に謝れるヤツか、とまず私は少し感心する。

 ここで「何その反応、ウケる」などと言われれば私はそれを挑発と見做みなし、勝てもしない喧嘩をいたのだろう。

 全く、笑えない話である。

 とまぁそんな話は置いておいて、私は早速目の前の謎の究明に取り掛かる。


「えっと、その、あなたは……?」


「あっ、私?」


 しまった、恐ろしく漠然とした質問を投げかけてしまった。

 キャッチボールに例えるならば、お相手の5mほど手前地点に向かって投げられた、力無いヒョロヒョロとしたボールのようである。

 脳内で生成された質問は実に簡潔で自信に溢れたものであったが、いざ口から飛び出してしまえばそれとは打って変わって情けないただの単語の羅列になってしまった。

 ここで存在しない読み手の皆さんに衝撃の事実を提供しようではないか。



 実は私は、脳内と表とで、人格が違うのである───



 ……そんな周知で羞恥な事実を開示したところで、一度私のターンを終えよう。

 そして彼女は私の質問とも言えない単語の羅列に対して、その長い黒髪をサラリと揺らして答えてくれた。


「私、×××の××だよ。久しぶり、なのかな?」


 合ってるよね?と言った表情で下から覗くようにこちらを見て言うものだから、同性の私ですら一瞬ドキッとしてしまった。

 その仕草とルックスの良さのシナジーは計り知れず、私の同性としてのちんけなプライドは美しい放物線を描きながら春のまだ少し高い空へと吹っ飛んでいった。

 絶対に勝てない、と一瞬でそう思わせる何かがあったのだ。

 近しいもので例えるなら、序盤のフィールドにいるくせにアホみたいに強いシンボルエンカウントのドラゴンみたいな──


「……大丈夫?」


「え?……あぁいや、うん、大丈夫」


 そう、大丈夫。

 だって彼女は××らしいから。

 そりゃあ、敬語なんて必要あるまいて。


 まぁ、散々苦労はかけられたし、正直好きというわけでもないのだが、元はと言えばそんな状態で生まれてきた私にも非はあるのかもしれない。

 そう思うところもあるから、別に嫌いではないのだ。


 正直、好きでもないけれど。



「ねぇ、最近どう?」


「最近って……」



 どうって、なんだよ。

 そりゃあ、当然───


 そう思ったところで、今朝は何故か身体が軽かったことを思い出した。


「そういえば今朝はなんか調子いいかも」


「やっぱりだよね!私も同じ!」


 元気だなぁと思いながら、私は若干の乾いた笑いをした。

 というか「私も同じ」ってそりゃあ……まぁそれはいいか。


「ここに来ようと思ったのは、身体が軽いからだよね?」


 ××はそう聞いてきたので、そういえばそうだったと私に今の現状を思い出させる。


「えっと、そんな感じ。調子に乗ったわけじゃないけど、行ける気がしたから」


 そう、別に調子に乗ったわけじゃない。

 うまく言えないけれど、今言った言葉に嘘はなかった。

 そんな曖昧な答えにも関わらず、××は「うんうん」と相槌を打つ。

 

「私も今日はなんだか元気なんだ。だからさ、多分今日は大丈夫だよ」


「はっきりしないなぁ」


 「なんだか」だの「多分」だの、いまいち判然としない物言いに一抹の不安を覚える。

 ただ、どこかでしっかりと安心している自分がいるのも確かであった。


 そっか、今日は大丈夫な日なのか。

 散々迷惑をかけられてきた相手にそれを言われるのは少し癪な部分もあるが、まぁ誰にも言われないよりはマシか。

 一番の理解者でもある気もするし。

 ……というか張本人?

 

 なんて解釈に行き着いた私は、ついでに尋ねてみるのだった。



「ねぇ、あなた×××の××なんでしょ」



「そうだけど?」



「これから、3年間……どうかな?」



「………………」



 優しく温かい風が吹いた。

 それは××と私の髪をゆらりと揺らし、通り抜けてゆく。

 風が凪いだ後、××は軽く微笑んで、小さな声で呟いた。


「……うん、しばらくは大丈夫!」


「いや、しばらくって……」


 また判然としない答え。

 でも、××も申し訳なさそうな顔をしている。


「ごめんなさい、私でもよくわかんないの」


「……そっか」


 わからないなら、しかたない。


「あ、でもね」


 ××は一歩前に踏み出し、ずいっと近付いてきた。


「今までで一番調子がいいのは間違いないよ。でも、無理はしちゃダメ。わかった?」


「……りょ、了解です」


 私の返事を聞き終えると、××はそっと私を抱きしめた。

 突然強い安心感が湧いてきて、私の緊張や不安を急速に解きほぐしていく。

 「大丈夫だからね」と、私を抱きしめる力が少し強くなった。

 熱いくらいの体温が伝わってきて、私の体温も上昇しているのを感じる。


 そしてそのまま××の身体は真っ赤な液体になると、私の身体へと染み込んでいった。


 その赤は太陽のオレンジじみた赤よりも赤く、健康そのものといった明るさを持っていた。

 一番近しいものを挙げるとすれば、赤い絵の具とかが一番近い色をしていると思う。

 そんな色だったからか、自然と笑みが溢れた。


「大丈夫、か」


 彼女の体温をしっかりと記憶して、胸にそっと手を当てる。

 ふと気付いて横を見てみれば、門はすでに開いていた。

 彼女が開けてくれたのだろうか。


 まぁ、開いたならなんでもいいや。

 

「よっしゃ」


 私は確かな安心感を抱え、門へと一歩踏み出した。

 


       ─・・・・─



 夢の世界から抜け出し、意識が現実へと戻ってくる。

 定期的に身体が揺れる感覚がして、私はゆっくりと目を開けた。


「…………夢か」


 夢から覚めた時のテンプレートを一つ呟き、いつの間にか崩れていた姿勢を正す。

 長らく不規則な生活を送っていたからか、朝という時間帯に慣れずに寝てしまっていたようだ。


 それにしても、変な夢だった。

 やけに鮮明に記憶に残っているくせに、その内容は訳がわからない。

 一点、私がやたら元気だったことは理解できたが。


「朝ごはん作って、散歩ねぇ……」


 いざ口にしてみると、なんだか今の自分なら本当にできそうな気がしてくる。

 夢を夢で終わらせないとは正にこのこと。

 作るなら、そうだな、どうせなら──



『次は木戸〜……木戸に到着致します』



 目玉焼き……フレンチトーストとか……木戸……卵焼き、味噌汁、ベーコン───



 あれ、今なんか異物が……


 

「……木戸?」



 刹那、私は今までの人生でハイライトなのではないかというスピードでスマートフォンの画面を確認した。

 その勢いあまって一度地面に落としそうになるが、なんとか指先で手帳型ケースの端を掴んで事なきを得る。

 そしてすぐさま画面をタップし、可愛らしいシマエナガの待ち受け画像と共に現れた数字が示していた時間は──


「はちじ、じゅっぷん……」


 8時10分。

 つまり、8時からすでに10分経過している。


 私はそっと手帳型のスマホケースを閉じて、漫画の登場人物のようにしっかりと頭を抱えた。



「お、終わった……」



 嗚呼、さよなら私の高校生活。


 初日の渾名あだなは重役出勤。

 そのくせ碌に仕事もできないもんだから、ゆくゆくは天下りなんて呼ばれ方に変化していくのだろう。

 そして拙い作業中に言われるのだ。


「あなたはお茶でも啜っててください」と。

 お茶汲みすらできない、お茶飲み係。


「……これはまずい、やばいやばいやばい」

 

 ここで存在しない読者の皆様に、私が今現在過去に類を見ないほど絶望している理由を整理して説明させていただく。


 ます、目的地である紅楼高校の最寄駅は「日枝」という。

 そこから3駅過ぎたところに、木戸という場所が存在する。

 日枝から木戸まではおよそ10分かかる上、3駅も乗り過ごすことなど普通はありえない。

 ……まぁやってしまったものはしょうがないとして、すぐに木戸で下車したとしよう。

 したとして、反対方向の電車がすぐに来るわけではない。

 仮にすぐに来たとして、当然日枝までは行きと同様10分ほど時間を要する。

 そして日枝で下車し、そこから高校まではおよそ10分。

 徒歩で10分ということは、私の足では頑張ったとして15分はかかる。


 そして本日の始業時間は8時30分。

 とどのつまり、今からどんなに急いだとして、決して間に合わないことが現時点で確定したのであった。

 以上が私の脳内で瞬時に弾き出された絶望計算のあらましである。


「ひひ……終わりだ……」


 私は愉快犯のような笑みを浮かべながら、目的地より遥か遠い木戸駅のホームに降り立った。

 脳内では必死に自身を俯瞰して何とか余裕を取り繕っているが、正直きつい。

 正直というか、誰から見てもきつい。


 春の穏やかな風が駅のホームを吹き抜けていき、私の孤独感を強めた。


 当然周りには自分以外の人影はほとんどない。

 いるとすれば、こんな朝からまぁお元気なことで、人間のつがいが一組いた。

 人の気も知らないで、楽しそうに喋っている。

 あぁいう人種を特別憎しと思ったことはないが、今現在に限っては相応の腹立たしさを感じざるを得ない。

 いつまでも近くにいてもしょうがないのでそこからそれとなく離れると、間も無く学校方面の電車がやってきた。



       ─・・・・─



 乗り込んだ車両には私一人しかおらず、それはこの辺りの過疎レベルを表しているといっても過言ではない。

 大半の人(ほぼ学生)は日枝で降りるし、勤務地の多い都会はこちらとは逆方向。

 この絶賛出勤タイムにおいても人影がほぼ見られないのは、先に述べた理由に加えてこの辺りが過疎地域であること、そしてその中心地が正にこの木戸であることが原因として挙げられる。

 という訳で、迷惑をかける人間もいないことだし私は白昼……否、早朝堂々と車中で電話を掛けるのだった。


 いつも通り連絡先の履歴から一番上を押す。

 それから少ししてコール音が数回鳴って、すぐに繋がった。

 


「……もしもし」


『何、どした』



 その声はいつもと変わらなくて、何だか急に安心感が襲ってきて力が抜けた。


 

「寝過ごしました」


『……なんだって?』


「不肖わたくし、日枝を寝過ごし現在木戸から蜻蛉とんぼ返りしている状態でございます」


『……やっちゃったね』


「……やっちゃいました」


『ま、しゃーないか』



 しゃーない、か。

 そう言われればそうなのかも知れないが、私自身がそう思ってしまうのはどこか違う気がするものだ。


 しかし背に腹は代えられない。

 あの技を使う時が来たようだ。

 今回はちゃんと時間通りに辿り着こうと努力はしたのだし、致し方ないという考えに至っただけの話。

 故にこの様な手段を取るのも、仕方がないのだ。



「だからその、学校からまだお子さんが来てないですという連絡がありましたらですね……」



 私はまだ言葉がうまく話せない幼子のように、「察して欲しい」というオーラ全開で声を小さくしてそう言った。

 そしてそこは流石の我が育ての親、やれやれといった様子で「はいよ」と一言。

 いつもならばこの後にもう一言、注意が入るはずだ。



『分かってると思うけど、あんまり何度もやるもんじゃないからね』


「それはもう、重々承知しておりますので」


『ほんとかなー?』


「ふふ、本当だって」



 ありがたい、としみじみ思う。

 無論、私を育て上げたのだから一番の理解者たり得るのは当たり前なのだが、中にはそうはいかない人も存在する。

 現代風に言えば「親ガチャ」でハズレを引いた、というやつだろうか。

 そうでなくても早くに親を亡くす人だっているだろうし、そもそも親の顔なんて見たことがないなんて人もいるだろう。

 だから私は文字通り、と改めて思ったのだった。


 まぁこんな真面目なことを考えるのも、今日のような人生の節目だけなのだろうよ。



       ─・・・・─



 電車を降り、そういえば夢でも歩いた道を私はゆっくりと歩いていた。

 生来何をするにも疲れやすい私は、ちょっとした坂道を登っただけでもすぐに息が切れる。

 それ以前に今までの人生運動も碌にしてこなかったものだから、持久力など私には縁のないものであった。

 では強靭な肉体を持って生まれていたなら積極的に運動をしたのかと問われれば、それについては黙秘権を行使させてもらう。

 仮定の話を広げるほど不毛なこともあるまい。


 兎にも角にも私自身のカスみたいな体力ゲージついて最早何も言うことも思うこともないが、事実ではある以上私は他人よりも通学時間を多めに見積もる必要がある、という話である。


 駅から紅楼高校まではおよそ10分ほど。

 それを私はおよそ15分強かけて歩く。

 当然と言えば当然なのだが、既に私以外の人影は見当たらない。

 その事実を再確認した時また少しドキッとしたが、もう先ほどのような焦りは生まれなかった。

 人間の機能の一つとして、「遅刻は一周回るとどうでもよくなる」というものがあると聞いたことがある。

 なんならどうせ遅刻するのだからス◯バでも寄っていこうという思考回路に切り替わる人もいるらしい。

 そういった心臓に毛が生えている人を素敵だとは思わないものの、そのハートの強靭さには羨望の眼差しを送らざるを得ない。

 ……色々な意味で。


 とはいえ、そんな私自身もある程度の落ち着きは取り戻している。

 焦ってもどうしようもない、どうせならまったりのんびり行こうではないかという思考回路へと、徐々に切り替わりつつあった。


  

       ─・・・・─


 

「はぁ、はぁ、はぁ……」


 学校への道のりを半分ほど歩いたところで私はついに立ち止まった。


「はぁ、はぁ、きつ……」


 学校までの道のりは全体的に見て上り坂になっていた。

 2、3分程度歩くことなど無論造作もないが、流石に10分近くも早歩きをすれば息も切れるというものだ。

 胸は苦しいし、若干汗ばんできて心地が悪い。

 

「だめだ……はぁ、休もう……」


 私は視界の端に映った、どこへと繋がっているのかさっぱり分からない長い階段の2段目に腰を下ろした。


「はぁ、はぁ……だめだこりゃ……」


 腰を下ろした途端、自身の体重がどっと増えたような感覚になる。

 石の持つひんやりとした温度が伝わって来て、自分の持つ熱が地面に吸われてゆく。


 大きく脈打つ鼓動をしっかりと感じつつ、大きく息を吸って吐く。

 ここら一帯が日陰になっているのもあってか、涼しい風が二度三度通り抜けていった。


「気持ちいー……」


 周りも実に静かで、とても落ち着く。

 耳を覚ますと葉擦れの音が聞こえ、風が吹くたびにその強さを増す。

 あぁ、実に春らしいなと少し感動すら覚える。

 こんなまったりしてる場合ではないのだが、階段から立ち上がれる気がしなかった。

 まぁどうせ遅刻は確定しているわけだし、この後誰がこの道を通るわけでも───




「うおっ」


「うわっ」




 ……どうやら後続がいたらしい。


 奇怪なものでも見るような目でこちらを見ていたのは、真っ黒な髪に緑の鞄、そしてブレザーは鞄にしまってあるのだろう、白シャツ姿の男子であった。

 その色合いは正にオセロ。

 コイツの渾名は向こう数年オセロになるに違いない。


「お、おはようございます」


「お、おう」


 目と目があって何も反応しないのも悪いと思い、取り敢えずまずは簡単な挨拶。

 そう、挨拶は大事なのだ。

 古事記にもそう書いてあった。

 多分。


「その、大丈夫……か?」


 そんなに顔色が悪かっただろうか、心配されてしまうとは我ながら情けない。

 後で教師か何かに「道中変な生き物を見かけた」なんて伝えられても困るので、ここは平気な態度を保つべし。


「あ、大丈夫です。もう行きますので」


「そっか……そんじゃ」


「どうも」


 結局彼は軽い会釈をして行ってしまった。

 どうせならこの地味に重たい鞄も一緒に持って欲しかったものだ。

 心配するだけして特に行動に移さない現代人の背中を見送り、私は横に置いてある鞄を軽くバフッと叩いた。

 持っただけでは特に重量感を感じないものの、ずっと持っているとスリップダメージのように徐々に体力を奪われていく感覚がある。


 兎にも角にも、私もいつまでも休んではいられない。


「……よし」


 そう思い、もう30秒だけ休んでから漸く重い腰を上げたのだった。



       ─・・・・─



 無心で歩いているうちに、校舎は既に目前までに迫っていた。

 学校の説明は……いらないか。

 なんだか既に説明したような気がしてならない。

 確か9500文字くらい前だっただろうか、あまりはっきりとしなくて実に申し訳ない。


 そんなことはさておき、私はやっとの思いで目的地へと到達していた。

 

「はっ、はぁっ、はぁ……こりゃ、やばい」


 どうせ遅刻なのだから焦ってはいないとは言ったものの、それは急ぐ必要がないという訳ではない。

 私は残りの体力を全て使い切らんとする勢いで最後の地味な斜面を上り切り、大きな達成感と共に正門の前へと辿り着いたのだった。

  


「はぁ、はぁ、はぁ、着いた…………」



 身体全体がポカポカしている。

 こんな感覚は随分と久しぶりで、苦しさの中に新鮮な気持ちが僅かながらに混じっていた。

 まぁ、気持ちの大半が汗ばんだことによる不快感なのは最早言うまでもない。


 瀕死のモンスターのように足を引き摺ってなんとか辿り着いた下駄箱のあるエリアには、当然ながら私の他に人影はなかった。

 みっともない姿を見られなくて安堵する気持ちと、完全に遅刻したという現実が混ざり合って、何とも言えない感覚になっていた。


 事前に指定されていた下駄箱に靴を綺麗に揃えてしまった後、鞄から新品同然の上履きを取り出す。

 爪先つまさきには「日向」の2文字。

 我ながら結構上手く書けた気がする。

 高校こそはこいつを潰れるまで履いてやりたいところだが、と小さな闘志を燃やして、まだ汚れ一つない上履きを履いたのだった。


 さて、ちらとスマホを確認すればそこには8時43分という数字がしっかりと表示されていた。

 本来ならば10分前行動を心掛け、8時20分には教室にいなければならないのが常識というものである。

 そう考えると20分以上も経過していることに改めて恐怖し、先ほどまでどこか遠くにあった焦りという感情が徐々に戻りつつあった。

 逸る気持ちを抑えつつ、息も整わないまま私はゆっくりと階段を登り始めた。

 


 一年生のクラスは4階にある。

 二年生は3階、三年生は2階であり、何一つ数字が合わないことに若干の歯痒さを覚えつつ、私は階段を登っていく。

 焦りに背中を押され、勢いを止めずに足を動かす。

 一息に3階まで登ったところで一息つき、多少呼吸を整えた後に最後の階段を一気に登って、ついに4階へと辿り着いたのであった。


「はぁ、はぁ、うぇぁ……やばっ……」


 私の呼吸はまるで軽いマラソンを走り終えたかのように乱れていた。

 これはいけない。

 少しでも体力をつけねば。

 あまりに息切れしすぎて「加湿器」なんて渾名をつけられるわけにもいくまい。


 ……なんて思うのも、最早何度目なのだろう。

 毎日この階段を登っていれば、その内慣れてくるものなのだろうか。


「……はぁ、はぁ、毎日、か、はぁ……」


 若干の憂鬱さを感じながら廊下に出ると、すぐ左手に1年1組の教室が見えた。

 私の属するクラスは1年4組である。

 クラスは5組まであり、階段を登り終えた地点に1組があって、そこから順に数えて4番目の教室が4組となる。

 5組の人間が少々不憫だが、そういったところもクラス分けの醍醐味というやつなのだろうか。

 私は近いに越したことは無いと感じるが、奥まったところにある点に魅力を感じる人も中にはいるらしい。

 きまってそういう人間が1組になったりするのが世の常というものであるが。

 

 廊下を歩いていると、教師の声だけが聞こえて来る。

 中学の頃、授業中にトイレに行ったり保健室に行ったりした時と同様の感覚がして、途端に懐かしい気持ちになった。


 さて、呼吸も整わぬまま4組の前にやってきた。

 ドアの前に立つと窓から姿を見られてしまう可能性があるので、私は後ろのドアを少し過ぎた辺りにささっと移動して姿を隠した。


 鼓動が強く振動しているのを感じる。

 階段を登ったことによる動悸から緊張による動悸へのシームレスな推移を感じつつ、私は少しでもドキドキが鎮まるよう胸に手を当てて長く息を吐いた。

 その鼓動が私の不安を体現していることなど百も承知だが、今はこのくらい動いてくれていた方が逆に安心するというものだ。


「はぁ、はぁ……。───ふぅ」


 鼻で息ができるほどまでに呼吸が落ち着いている反面、鼓動は過去に類を見ないほどに脈打っていた。


「……よし」


 そして私は急いでやってきた感をアピールするため、少しせわしなく教室の後ろ側のドアを開けたのだっ



「日向さん?」


「ひぃっ!」



 まるで殺人現場にでも出会したかのような声が出て、それは静かな廊下にやかましく響いた。

 

「やっぱり!日向さんですね!」

 

 あまりにも情けない声だったので、こんな声が自分から出るものなのだと分かってなんだか少し悲しくなってきた。


 それはさて置き、私に情けない声を上げさせた犯人が教室の前の方のドアからこちらを見ていた。

 と思ったのも束の間、すぐにこちらに駆け寄って来たのでまた少し驚く羽目になった。

 

 出会い頭に2度もこの心臓を脅かすとはなんという不届者か、と悪態の一つでもついてやろうかと思ったが私はすぐにその考えを改める。

 黒髪を一つに束ね、ベージュのスーツを見に纏ったその姿は正に教師であった。

 というか、何故バレたのだろう。

 窓にチラッと頭でも映ってしまっていただろうか。


「良かったぁ、無事に来れたんですね!」


「え?あ、まぁ、はは……」


 恐らく、というか十中八九母が上手いことやってくれたのだろう、私が普通に駅を寝過ごして遅刻した事実はご存知でないようだった。

 このやり取りだけでこの先生の人の良さが窺えるが、情けない声を聞かれてしまったのは事実である。

 何とか体裁だけでも保とうと、私は昔から周囲からの評判が悪い作り笑いを顔に貼り付けて返事をした。

 笑っているように見えて目が死んでいるらしい。

 昔から隠し事が下手なのは、こういった演技力が皆無なのも関係しているのだろう。

 そんな精一杯の表情が視界に入っていないのか、先生は私に笑顔のまま近付いてきて言った。


「実は今ちょうど自己紹介始めようとしてたところなんです。誰か最初にやってくれないか探してたんですけど……あ、そうだ!」


 まずい。


「あ、いやその」


 この瞬間、私は全力を持って逃げ出したい気持ちに駆られた。

 この場面で思いつくことなど、碌なものではないことくらいは察しがつく。

 頭の中の私が「逃げろ」と警鐘をガンガン鳴らしながら叫んでいる。

 今すぐ回れ右して駆け出したい。


「あのね、」


「えっと」


 しかし、ダメなのだ。

 今逃げたところで、もっと酷い有様になることは目に見えている。

 そもそも遅刻した私に選択肢などもとより存在しないのだ。


「お願いなんだけど……」


「いや……」

 

 そして無慈悲にも、その言葉は発せられるのであった。



「日向さん最初にやってくれないかな?」


 

       ─・・・・─



 Noと言えない日本人、という話を聞いたことがある。

 十人十色・多様性が当たり前となった今日こんにちでも、日本人のそれは美徳だとか悪しき文化だとかいう不毛な議論が多く飛び交っているのだろうが、それについて私が革命の一石を投じてみせようではないか。


「皆さん、日向さんが最初に自己紹介をしてくれるそうです。拍手!」


「あー……はは……」



 そもそも断り辛い質問をしてくる人間が全て悪い、その一点に尽きると。



 まばらな拍手を浴びながら、私は錆ついたロボットのような身体を無理矢理にでも動かして、どうにか黒板の前に辿り着いた。

 教室に入ってから10秒も立たず教壇に立つ生徒など前代未聞だろう。

 ヤンキーだってもう少し時間を要するに違いない。

 そんなことを思いながら視界に広がる光景に意識を向けてみれば、30人以上の男女がこちらをじっと見ている。

 中にはこちらを見てない奴もいて、窓の外を眺めていたり隣の席の人とコソコソ何かをやっていたりなんて人もいた。

 ……が、たかが三、四人見てないだけで何が変わると言うのだろう。

 四捨五入すれば結局は同じである。


「じゃあ、どうぞ!」


「えぁ、はい……」


 罪悪感のかけらもない先生からのカチンコが鳴る。

 監督は私が出演を快諾したとでも思っているのだろうか。


 というか、こういうのは貴女が先にやるべきではないのか?

 それとも先生の自己紹介は既に終わったのだろうか?

 そんなことを思いながら先生の顔をちらと見たが、相変わらずの笑顔のままだった。

 どうしたのかな?なぜ私は見られているのかな?とでも言いたげな表情がついに私を諦めさせるに至らしめ、渋々自己紹介に入るのだった。


「……えっと、出席番号23番、日向綴です。これから一年、宜しくお願いします」


 まぁ、自己紹介なんてこんなものだろう。

 そう思った私は、頭を軽く下げて終わりの合図とした。



『………………』



 ……あれ?


 教室は一瞬にして宇宙空間にでも放り込まれたかのような無音に包まれる。

 あまりにも静かなものだから、この鼓動が空気を震わせて誰かの耳に届いてしまっているのではないか───なんて馬鹿らしいことを一つ考えたところで漸くポツポツと拍手が聞こえ、そこで私はやっとのことで頭を上げることができたのだった。

 たった3秒ほどの間だったけれど、とても長いように感じられた。

 走馬灯を見る時もこんな感じなのだろうか。


 しかしまぁ先程も思ったが、自己紹介の一番初めなんてこんなものだろう。

 そんなことを思いながら、私は虫食いのようにぽっかりと空いている後ろから2番目の席に向かって歩き出そうとしたのだが──


「あ、日向さん!」


「……はい?」


「その、も〜ちょっと何か欲しいかな!」


 先生は指先で「も〜ちょっと」を表現しつつ、逃げる私を呼び止めるように話しかけてきた。


 チッ、ダメだったか……。

 もしかしたら許されるのでは、と思いつつしれっと席に着こうとしたが、どうやら監督の判定はNGだったらしい。


「もうちょっと、ですか……」


「そうですね、日向さんがどのような人なのか分かるようなお話をもう少しだけお願いします」


 どのような人なのか、か。

 全く、このすっかり安心しきってしまった頭でもう一度考えろと言われてもそうすぐに浮かぶものではない。

 

 本日2度目、教卓に立って脳みそフル回転。

 ……したところで、特に何か思い浮かぶ訳でもなかった。

 好きな食べ物でも言えばいいのか?

 得意な教科でも言えばいいのか?

 自己紹介なんて数年ぶりにやるから、そのなんてとうの昔に忘れてしまった。

 昔は何を話していたっけ。

 昔は……。




「えっと、私は───」




 と、そこまで言ったところで私の脳内にふと昔の記憶が蘇った。


 幼い頃と、小学生、そして中学生の記憶。



「私の───……」



 私という存在の説明。

 日向綴という人間を知ってもらうには、避けては通れない特徴が、そういえばあった。


 それを私はあまり進んで話したくはないものの、私という人間を端的に紹介するならこれしかないように思える。

 ……という感覚を、幼い頃、小学生、そして中学生の時にも感じたのを、たった今思い出したのだ。


 無論、言わないという選択肢もある。

 だが、それが後々面倒になるケースはもう既に体験済みだ。

 仲良くなった相手一人一人に説明するのはとても面倒だし、そうでない相手なんかには勝手に変な勘違いをされるだけ。

 だから先に伝えておけば良いだけの話なのだが───


「……日向さん?」


 色んな人の前で何度もやってきたものだから、逆に忘れてしまっていたというやつだろうか。

 それともあまり良い記憶ではないから、無意識のうちに海馬の奥底に沈めてしまっていたのだろうか。

 前にやったのは3年前になるし、忘れてしまうのは至極当然のことなのだろうか。

 ───理由はなんであれ、自分から口にするのはなんだかとても勇気が要る。

 誰かが代わりに話してくれていたのは随分とありがたいことだったのだと今更ながらに気付く。

 

 まぁ兎にも角にも、一度思い出してしまえばその内容は自然と口から出てくるのだった。


 緊張はいつの間にか薄れ、私はすぅっと息を一つ吸った。



「日向さん、大丈───」



「私には、先天性の心疾患があります」



「ぶ……」



「少し運動をしただけでもすぐ疲れたり、たまに体調が悪くなったりして皆さんにご迷惑をお掛けすることもあるかと思います。私だけお休みをいただくこともあるかもしれません。皆さんに助けを求めることもあるかもしれません」


『……………』


「その時は、ごめんなさい。出来るだけ皆さんと同じ生活ができるよう努めます。出来るだけ皆さんにご迷惑をお掛けしないよう努めますので、これから一年宜しくお願いいたします」


 今度は昔のように頭を深々と下げ、ゆっくりと顔を上げた。

 今まで母が私の代わりに話してくれていたことだったが、いつも後ろで聞いていたからかいつの間にか記憶していたらしく、口が一人でに動いていたように感じた。

 無論私が話すので多少アレンジはしたが、内容は大体同じはずだ。


 いつまで経っても拍手は聞こえなかったが、先生が悲しそうな顔で笑顔を作って「はい、ありがとう」と言ってくれた。

 いきなり場を盛り下げて申し訳ないが、最初に私を選んだ先生にも責任がないとは言えまい。


 そういえば昔はいつもこんな感じだったなと、懐かしさと惨めさが同時に湧き上がってくる。

 そしてその後はいつもみんなの反応が怖くて、いつも心が重くなるのだ。


 今回は、どうなるかな。


 スタスタと空いてる席に戻った私は、鞄を机の横にそっと掛けて、音を立てない様に慎重に椅子を引き、席に着く。

 その時に紅白色のストラップが机の脚に当たって、小さく音が鳴った。

 忘れてるなよ、と言われたみたいでまた少し気分が悪くなった。



 くじ引きで次に選ばれた近藤君がひどく居心地が悪そうに自己紹介をしていたのを見ながら、私はこれからの身の振り方を何となしに考えていたのだった。



       ******



 適当にそこら辺にあった紙を折って栞にし、分厚い日記帳をパタンと閉じた。

 人の日記帳を覗き見るという行為に多少なりとも罪悪感を感じる性格ではあるが、殊これに関しては誰かに読んでもらうために書いてあるようであったため、特に心が痛むようなことはなかった。


「てかこれ、小説じゃん……」


 読んでいた日記、もとい小説を少し離れたところに置き、目の前に広がっている荷物の山に目を戻す。


「……結構広げちゃったな」


 掃除中に2つの段ボールを見つけた。

 目の前の「日記」と書かれた段ボールには同じデザインの日記帳が何冊も詰められており、その横にあるもう一方の「メモノート」と書かれた段ボールには沢山の大学ノートが敷き詰められていた。


 興味本位で「日記帳」と書かれた段ボールから表紙に「一冊目」と書かれたものを手に取って読んでみたものの、それは日記というよりかは小説調で書かれており、とある少女の日常がかなり細やかに記録されていた。

 果たしてそれが誰の話なのか、ということについては、それは当然ながらこの部屋の主のものなのだろう。

 

 それにしても結構なボリュームがあったので、どうせなら腰を据えてじっくりと読みたいと思い、読んでいた一冊を他の日記帳と混ざらないように遠くに避難させた。


「こっちは……っと」


 好奇心の赴くままに「メモノート」と書かれた段ボールから一番上に乗っかっていた一冊を手に取り、開く。


「うわっ」


 そこには夥しい数の文字があった。

 殴り書きながらも普段から綺麗な字を書くのであろう特徴が窺える字で、内容としては日常で起きた事柄が事細かに記されていた。

 私はぎゅうぎゅうに詰まった文字の群れの中から、何となく目についた部分を読んでみた。

 


       ******



 朝の会話 7


姉の挨拶→返す

私「今朝は余裕そう」

姉「有給→私のためにとった」

私「バカじゃん!」

       その後駅まで、助かった


  バカはよくなかったかもね



             16 学校・夕方

        夕日きれい、夏希と帰った

        明日期末の勉強会→16〜

               教室にて



  11  軽い症状

  動悸Lv.3くらい?

  浅見が結構心配してきた

  相変わらずわからんヤツ

    

     感謝はした


                  13

             現代文100点!

               正直余裕

          みんなにはマグレって

       思わせとくのがちょーどいい



       ******



「細かぁ」


 少し見ただけでも、これを書いた人間の記憶力の良さが窺える。

 常に直ぐにメモを取ることなんてできやしなかっただろうに、書かれていることはやたらと具体的。

 まるで要点だけまとめておいて後で───



「……あっ」



 なるほど、合点がいった。

 二つの段ボールを交互に見やり、一人で「そういうことか」と呟く。

 となると、著者はこの日記帳にかなりの熱を入れていたようだが───


「……あ、時間やば」


 ふと時計を見ると、既にてっぺんを回っていた。

 明日、ではなく今日は大事な日だというのに、寝坊して遅刻しましたなんて冗談にもならない。


 取り敢えず好き放題散らかした目の前の惨状を、まとめて端の方に追いやることでなんとか誤魔化すことに成功した。

 そして先ほどまで読んでいた日記帳を手に取り、改めて表紙を眺めてみる。

 どのくらい前のものかは分からないが、丁寧に保管されていたのだろうか、そこまで昔のものには思えなかった。


 何にせよ面白い掘り出し物には違いないし、読んだところで誰に怒られるわけでも───



「………………」



 ま、別にいいか。


 毎晩、ちょっとずつ読み進めていくことにしよう。

 そんでもって、後のかたぐさにでもなればいい。


 そう思って机の上に日記帳を置き、それから部屋の電気を消してベッドにそっと横たわる。


 日記帳の内容を思い出して少し笑みがこぼれ、なんだか今日はいい気分で眠れそうであった。

 私は意識をそっと意識を手放し、いつもより深い眠りに落ちていったのだった。




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