第5章 履歴書の証明写真

5-1 六月の夜

 記録とは何だろうか。それは、現在を歴史に固着させる術である。そらは、文書だけではない。一部のグラフィックスもそれに含まれる。絵画がその最たる例である。その眷属である写真が果たす役割も大きい。


 カメラを構えて、シャッターを切る。それだけの行為に、何と多くの人々が焦がれるのだろうか。何と大勢の人が、心を奪われるのだろうか。心を澄まして、現在を切り取る。切り取られた時空が、フィルムに定着する。あるいは、デジタルデータとして記録される。


 スマホの時代。カメラは小さなスマホに内蔵されてしまった。ゴツゴツした大きなレンズや、重いけれども安定感のあるボディは、全く必要が無くなってしまったかのようである。

 僕はそれを少し残念に思っている。「カメラは重量感が全てだ」と考えているからだ。



 僕は、大学四年生の現在、「山田写真館」というフォトスタジオでバイトをしながら、様々なことを学んでいた。デジタルプリントや写真の色の補正作業。トリミングの上手な仕方。廃液の処理や各種の外注作業。列挙すればきりが無いが、毎日が学びの日々だった。


 大学では文学部英文科を専攻し、シェイクスピア研究にいそしんでいた。英米文学が好きで、原書も授業の外書購読の授業などで読む。



「カナター、ご飯よ」

香子姉さんの声で、僕は目覚めた。


 時計を見る。午後七時十分。

 今日バイトは無く、学校が終わるとすぐに家に帰って休んでいたのだ。六月の夜、雨は肌寒かった。先週、合同の会社説明会の案内があり、企業説明会に参加する企業の資料を読みながら、寝てしまったのである。


 僕は大学四年生になり、就職活動の開始時期を間近に控えていた。そんな中、将来の仕事を具体的に考えなければならないのに、会社案内を見ながら、自分の未来を探し続けているのだ。


 僕の日常は、大学とバイトの日々だった。

 平日は駅裏にあるハンバーガー・ショップで大学の授業を終えた午後五時から、閉店のダウン作業を終える深夜零時まで働く。平日、ほぼ毎日だった。


 土日は、高校の同級生の実家である写真館で、朝九時から午後三時まで働く。ハンバーガーを作っていても、写真をプリントしていても、僕の毎日は流れていく。この大学とバイトの日々が、もうすぐ終わりを告げることになるのだ。

 スーツを着て、ネクタイをしめて働くことは可能だが、いまひとつ、しっくりとこないのだった。どこかの会社に入り、朝九時から夕方五時まで働いて給料をもらう。そんな当たり前の人生を、自分が歩むことになることが、どうしても信じられなかったのだ。


 例えば、印刷会社の営業部に就職して、毎日車で各会社をまわったり、印刷物の見積りを作ったりする。そんな日常が、本当の人生なのだろうか。僕には、それがよく分からなかったのだ。

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