休んでください旦那様!
神無月もなか
第一話
1-1
「フィアレッタ。まだ幼いお前に、こんなことを頼むのは本当に申し訳ないと思っている。思っているが――頼む。とある人物と……結婚してくれないか」
長かった冬が遠ざかり、春を告げる妖精たちが世界中を駆け抜ける準備をしている季節。
フェルドラッド家の末妹、フィアレッタ・フェルドラッドは実の兄からそう頼まれた。
突然のことに理解が追いつかず、無言のまま、瞬きを繰り返す。
テーブルを挟んでフィアレッタの眼前に座っている兄――エヴァン・フェルドラッドは深く頭を下げており、表情をうかがうことはできない。見えるのは自身と同じ甘やかなストロベリーブロンドのみ。いつもは優しくフィアレッタを見つめてくれる目さえも隠されており、ただただ深くこちらへ頭を下げてきている姿ばかりが見える。
「……えっと……」
どういうことなのだろう。
胸の奥に疑問を抱えながら、フィアレッタは助けを求めて周囲へちらと目を向けた。
過ごし慣れたエヴァンの執務室の中は、いたっていつもどおりだ。執務机と椅子、領地管理のために必要な本や書類を収めた書類棚、そして二人が今使っている休憩用のソファーとローテーブル――幼い頃から何度も目にしてきた家具たちがずらりと並んでいる。
そして、メイドや執事といった使用人たちの姿もあるのだが、誰もがエヴァンが発した言葉の意味が理解できないと言わんばかりの顔をしていた。
周囲の人物から情報を得られそうにない。
早々に判断してエヴァンに視線を戻すと、フィアレッタは自身の記憶を探った。
いたっていつもどおり――そう、いつもどおりの日常のはずだった。
腰まで伸ばされたふわふわとしたストロベリーブロンドの長髪。
長いまつげに縁取られた、少し眠たげに見える銀色の目。
フィアレッタは、これらの身体的特徴を持って、アトラリア領をまとめるフェルドラッド伯爵家の令嬢として今から十二年前に誕生した。
家族といえるのは屋敷で働いている使用人たちと、今、眼前に座る実兄ぐらい。両親はフィアレッタが今よりも幼い頃に事故死しており、エヴァンが若くして当主の座に座り、アトラリア領を治めてきた。フィアレッタはそんな兄が少しでも安らげるよう、彼のために紅茶を用意してはティータイムに誘っていた。
両親が亡くなった日から時が流れ、エヴァンは二十歳、フィアレッタは十二歳になってからもこの習慣は続いており、今日も彼の下へ紅茶を持ってきてのんびりとティータイムを過ごす――はずだったのだ。
しかし、エヴァンの唇から紡がれたのはこれまでの日常の中には出てこなかった、予想外の言葉だ。
「……ええと、その……」
まずは落ち着こう。
戸惑い、動揺する自分に言い聞かせ、フィアレッタは小さく咳払いをした。
そうなってしまうぐらいに予想外だったのだ。エヴァンが口にした『とある人物と結婚してほしい』という言葉は。
常日頃から、エヴァンは将来フィアレッタと一緒になる人間は慎重に選ぶ、フィアレッタ本人が望まないのなら無理に結婚を迫るつもりもないから安心しろ――と口にしていたというのに、一体何があったのだろうか。
「エヴァンお兄様」
いつもの呼び方ではなく、少し真面目な呼び方で兄を呼ぶ。
一瞬、びくりとエヴァンが肩を揺らしたが、顔をあげることはない。
「エヴァンお兄様、まずは顔をあげてください」
もう一度、エヴァンへ呼びかける。
わずかに間を置いたあと、今度こそエヴァンがゆっくりと顔をあげた。
フィアレッタと視線を合わせず、わずかにそらしている。眉尻を下げて眉間にシワを寄せ、気まずそうに苦い顔をした姿はまるで叱られる寸前の子供のようだ。
「いろいろと気になることはあるのですが……まずは、何があったのか聞かせてくれますか?」
エヴァンが理由もなく、こんなことを言い出すわけがない。突然こんなことを言い出したのは何らかの理由があるはずだ。
そんな思いを胸に、目の前の兄へ静かな声で問う。
時間にして数分。少しの間、エヴァンは黙り込んでいたが――やがて、浅く息を吐きだした。
「……うん、もちろん。やっぱり気になるよな。本当に悪い、突然こんなことを言い出して……」
そういって、エヴァンはがしがしと片手で頭をかき、深いため息をついた。
やがて、頭に当てていた手を下ろして、浅く息を吐き――しゃんと背筋を伸ばす。
今度はそらされることなく、真正面からフィアレッタの目を見つめてくる頃には、エヴァンの雰囲気は先ほどと異なるものに変化していた。
ここにいるのは、フィアレッタの兄としてのエヴァンではない。若くしてアトラリア領を治めるフェルドラッド家の現当主としての彼だ。
「本題に入る前に少し歴史の授業のおさらいをしようか。我らがパンタシア王国について、フィアレッタはもちろん知っているよな?」
「はい。ある妖精から祝福を受けた人間が最初の王となり、この地に国を作り、妖精や幻獣たちと古くから共存を続けてきた――と。そのような歴史があるため、パンタシア王国には妖精や幻獣たちと特別な縁を持つ者や古い時代から親交がある家も多いのだと、家庭教師の先生から教わりました」
「ああ、そのとおりだ。さすがフィアレッタ、授業をよく聞いているな」
ふ、と。エヴァンの表情がかすかに和らいだ。
けれど、それも一瞬のこと。次の言葉を発する頃には緩んだ表情が再度引き締められ、当主としての顔に戻る。
「フィアレッタが答えたとおり、我が国は古くから妖精や幻獣たちと手を取り合い、共存を続けてきた。良き友人、良き隣人として。……そして、彼ら彼女らと特別な縁を結んで親交を深めてきた家の人間たちは領主として各地を治めてきた」
エヴァンの言葉に、フィアレッタは無言で頷く。
領主として各地を治めている家門の多くは、そういった歴史を持っている。フィアレッタとエヴァンが生まれたフェルドラッド家も例外ではない。
フェルドラッド家は、ここ、アトラリア領で古くから妖精や幻獣たちとの絆を育んできた。その中には特に妖精や幻獣たちから愛され、祝福され、彼ら彼女らから特別な贈り物を受け取る者もいた――あまりに好かれすぎるあまり、妖精や幻獣たちが暮らしている領域に連れて行かれそうになることもあるため、手放しで喜ぶのは難しいが。
「けれど、全ての家門が妖精や幻獣たちと良好な関係を結んでいるわけではない。……残念なことに、家門の中には妖精や幻獣たちへの親愛や感謝を忘れ、危害を加える家門もあった」
エヴァンがそういった瞬間、周囲の空気がぱりっと変化した。
穏やかさの中に戸惑いを含んだものから、強い緊張感が満ちたものへ。
そんな空気に変化してしまうほど、妖精や幻獣たちに害をなした家門の話は――彼ら彼女ら幻想の隣人たちを深く愛するフェルドラッド家の人間にとって許せない話なのだ。
でも、エヴァンはどうして突然こんな話を始めたのだろう。
内心一人で首を傾げていたフィアレッタだったが、ふと、一つの可能性が頭に浮かんだ。
最初、エヴァンはとある人物と結婚してほしいと言い出した。
そして、パンタシア王国の成り立ちから始まり、各領地を治める家門の成り立ち、妖精や幻獣たちと友好的な関係を結んでいるわけではない家門の話へと移り変わっていった。
そういった家門は少ないが、非常に有名な――知らない者はいないと言っても過言ではないほどに有名な負の歴史を持つ家門を一つ、フィアレッタは知っている。
「……お兄様、まさか……」
まさか――。
「……結婚してほしい方というのは、レースディア家の方なのですか?」
フィアレッタがその家門の名を口にした瞬間、エヴァンがはっきりと表情を曇らせた。
複雑そうに。あるいは、胸の奥でくすぶる不快感を無理やり噛み潰して飲み込んだかのように。
表情を曇らせたのはエヴァンだけではない。静かに控えていた使用人たちもはっと両目を見開いたあと、複雑そうに顔をしかめた。
重苦しい沈黙が広がったあと、エヴァンが深く息を吐き出す。
「……ああ。レースディア家からフィアレッタ、お前へ婚姻の申し出がきた」
どくり。フィアレッタの心臓がひときわ大きな音を立てた。
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