少女は舞台で輝く

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少女は舞台で輝く

 日曜日。

 天気が悪いと感じたのは昼前頃だったろうか。

 その時にはもう、雲行きが怪しくなっていた。

 しかし、まだ雨は降っていない。

 一人の少年が、街にあるこじんまりとしたバス停で空を見上げていた。

 やせ形の13、4歳くらいの小柄なメガネをかけた少年だった。

 取り立ててカッコよくない、目立たない男の子だ。

 アイドル似でもない、女の子に黄色い声を上げられる美少年でもない。これなら小太りな方が印象があって記憶に残りやすい。印象が薄いだけに、外面の採点はマイナスだ。

 酷な言い方をすれば、

 イモ。

 それは、決して明るく、良いイメージがない表現だ。

 ・・・・でも、何だろう。

 イモは形が悪く土にまみれ汚れているが、この少年に当てはめると別の印象を受ける。

 素朴で温かく、日差しを受けて香る土の匂いが伝わってくる。

 そんな、少年だった。

 名前を、佐京さきょう光希こうきと言った。

 光希が空を眺めていると、雨が見えた。

 ポツリ、ポツリと降り始めたと思ったらすぐに土砂降りになった。雨が降り始める前に、屋根付きのバス停に入れたのは幸運だった。

 途端に独特の臭気が鼻をつく。

 これは、カビや排ガスなどを含むほこりが水と混ざり、アスファルトの熱によって匂いの成分が気体となったもので、ペトリコールと俗称されるものだ。

 不快ではあるが、嫌いではない。

 むしろ好きな部類に入る。

 そんなことを口にはできないが。

 光希は雨音を聞きながら、目を閉じて耳を澄ませた。

 しとしと降る霧のような雨ではなく、ザアザアという激しい雨だ。

 ふとバス停のある歩道沿いに目を向けると、ガーリーなワンピースを着た少女が傘も差さずに歩いている姿が見えた。

 陰を感じた。

 性格が暗いという意味ではない。

 日陰で育った花の様に、どこか、か弱さを感じてしまうのだ。

 でも、それも少女の持つ魅力でもあった。

 髪型は、シンプルなミディアムストレートで、自然なままの美しい髪を大切にし、素肌を整えた清潔感のある印象がある。

 小柄で物怖じするように感じてしまうのは、少女の人見知りする性格だったのかも知れないが、それ故に清楚に感じた。

 雨が降っているにも関わらず、少女は走りもしないことに光希は妙だと思っていると、少女は突然座り込むように、その場に膝をついた。

 光希は、すぐに駆け寄った。

「どうしました。大丈夫ですか?」

 と声を掛けるが返事はない。

 空気を求めるように口を動かし何かを伝えようとしているのに光希は耳を傾ける。

「だ……。大丈夫、です」

 少女は、そう言うが、このまま放っておく訳にはいかない。

「立てる?」

 光希が訊くが、少女は言葉を詰まらせる。

 それは動けないことを意味した。

 光希は、今の少女にとって何が最善かは分からなかったが、せめて雨が当たらない場所へ連れていくべきと思った。幸いなことに、バス停にはベンチもあるし屋根もあったので濡れず休ませることができる。

「ごめん。ちょっと失礼するよ」

 光希の言葉に意味が少女は理解できなかったのか、疑問を表情に浮かべていた。

 光希は、そのまま少女を抱きかかえるようにして、少女の身体に腕を回すと身体を一体化させるように密着させる。

 少女は突然、見ず知らずの異性に抱かれたことに驚き抵抗するが、光希はそれを抑え込み抱き上げる。

 少女の腰と腿の下に腕を入れて抱き上げる抱え方。一般名称を、横抱き。いわゆる、お姫様抱っこの状態だ。

 少女の身体は決して重い訳ではないが、光希は猫を抱き上げるように重さも気にせず軽々と持ち上げる。

 しかし、少女にとっては恥ずかしいことに違いなく、驚きつつも顔を真っ赤にする。

 だが、調子の悪さに光希の腕から逃げることも出来ずにいた。

 光希はそのまま歩き出し、少女をバス停のベンチへと運ぶ。

 彼はベンチの上に少女を下ろすと、肩掛け鞄の中からタオルを取り出し、それを少女に差し出す。

「……あ、ありがとうございます」

 少女は、それを戸惑いながらも受け取ると髪や顔などを拭き始める。

 バス停の軒下から外を見れば、雨はまだ止む気配もなく降り続けている。光希が少女を連れて行かなかれば、少女はずぶ濡れにになっていたことだろう。

「ちから……」

 少女は光希を見ながら口にする。

 光希は首を傾げる。

「あ。力が強いんですね。その、びっくりしました。こんなにも簡単に抱き上げられるなんて。凄いですね」

 光希は、少し照れくさそうに頬を掻いた。

 確かに、このくらいの年頃の少年にしては、力はある方だと自覚している。

 ただ、それは、鍛えているとかそういうものではなく、技術的なものだからだ。

「僕は武術ウーシュー(中国武術)をしているんだ。いま君のことを抱えた方法は、古武術介護と言って古武術の理合を介護に応用したんだよ」

 少女は、驚いた様子を見せる。


 【古武術介護】

 身体機能が弱っている人や寝たきりの人の介護には、介護をする側の負担も少なくない。ましてや相手が自分より体格の大きい人だったり、毎日の介護だったりするとなおのこと。起き上がらせる動作ひとつとっても、やり方によっては腰や肩を痛める原因にもなります。

 介護をする側と介護を受ける側、双方の負担を減らす目的で、理学療法士・介護福祉士の岡田慎一郎が取り組んでいるのが、古武術の身体運用を参考にした「古武術介護」だ。

 古武術の「筋力に頼らない、体に負担をかけない」合理的な体の使い方と様々な場面に応用が出来る柔軟な発想をヒントに提案された。

 古武術とは、明治維新以前、日本が欧米化される前に、侍たちが剣、素手での格闘術、手裏剣、棒術などを総合的に行っていたものの総称。

 現在の日本人は欧米型の生活スタイルとなり、動き方も欧米型の動作の影響が大きいと言われている。

 もちろん、介助技術も欧米型の運動理論が基になって作られている。

 ところが、日本的な生活動作は欧米型とはかなり違う要素が見られる。岡田氏は欧米人と比べ、体格、体力的に劣る日本人が筋力に頼らず、体の使い方を工夫してきたことに古武術を通し気づかされた。 命のかかった場で育まれた古武術はかなり精密な原理によって構成をされ、運動理論として見てもかなり合理的だ。

 言わば、古武術とは日本的運動理論の象徴と言える。

 一例として、立っている人を後から抱え上げるとする。

 その際、何も考えずに普通にやると、腕をまわして自分の両手を組んで握る。あるいは、より相手と密着できるように、自分の手首を握る持ち方をする人もいるかもしれない。

 しかし、いずれにしてもかなり筋力を使用するやり方で、体重差があるとだんだん厳しくなってくる。

 古武術的な一工夫を加える。

 中指と薬指を折った「キツネさん」の手を両手とも作る。

 手首の内側を重ね合わせる。

 そのまま肘を後に引いていくと、それぞれの中指、薬指がフックのように手首に引っかかる。

 その姿勢のまま相手を持ち上げると、通常よりかなり軽く持ち上げることができる。

 常識で考えれば、しっかり力を入れて握ったほうが安定し、力も効率的に伝わりそうだ。

 でも、実際にやってみると、こちらのほうが相手の身体を楽に持ち上げることができる。

 番組「ようこそ先輩」にて武術家・甲野善紀が出演した時、その収録現場でアシスタントとして小学校5年生の女の子にこの方法を教えたところ、なんと当日のゲストで、183cm92kgのスポーツ指導者の方を軽々と持ち上げてしまった。

 持ち上げたのは3名で、みな体重40kgにも満たない女の子だった。

 これが、筋力に頼らない古武術の 「チカラ」なのだ。


 光希は春香を抱き起こした時に使ったキツネの手をして、どうやって春香を抱え上げたのか、その手付きを再現してみせた。 

 武術ウーシューに、百家ひゃっっかちょうを取り、自家じかの短をおぎなう。

 という言葉がある。

 これは、他の流派の長所は積極的に取り入れ、自分の流派に足らないところを補っていく。

 という意味だ。

 自分の流派を守りたい一心で、他の流派に敵愾心を燃やし、また他の流派の長所にはいっさい目をつぶり、その欠点だけを言い立てるというのは、武術の流派には珍しくない傾向だ。

 だが、それでは武術界全体の発展にもつながらないばかりか、自分の流派を衰えさせることにもなる。

 各流派は、それぞれが長所を持っている。

 それらの特色を無視するのではなく、積極的に学んで自分に取り込んでいけば、欠点を補うばかりか、自分の技の幅を広げ、豊富にすることに繋がる。

 光希は武術ウーシュー(中国武術)を学んでいるが、その他の武術や格闘技・武道についても勉強をしており、古武術介護は、その中で知ったことだ。

 そして、武は力だけではないということも学んだ。

「それよりも、君はどこか具合が悪いんですか?」

 光希は少女のただならぬ様子に訊いた。雨の中、動けなくなってしまうというのは尋常なことではない。

 すると、少女は俯きながら、口を開く。

「……いえ。少し、身体が丈夫じゃないだけなんです」

 少女はそう言い、自分の胸を押さえた。

 光希は少女の不調に深い事情があるのではと感じたが、他人である自分がそれ以上踏み込むのも躊躇ためらわれ、口を閉ざす。

 雨はまだ止む気配もなく降り続けている。

「私、渡瀬わたせ春香はるかって言います。助けて頂いてありがとうございました」

 少女は光希の顔を見て言う。

 光希は首を横に振る。

 別に、少女を助けたくてした訳ではない。放っておけなかっただけだ。それを助けたと言えばそうなのだが、それは偶然に過ぎない。人間なら誰だって同じことしたハズだ。

 少女が礼を言う必要はなかった。

 しかし、少女はその気持ちが嬉しかったようだ。申し訳無さそうにすると、もう一度、深く頭を下げた。

 光希は、気にしないでくださいと応える。

 それから、光希も名乗る。

「僕は、佐京光希って言います」

 光希と春香は、お互いのことを話していると、通学する学校こそ違ったが、同じ中学生なのを知った。

 春香は、休日を利用しての買い物をしての帰りだったが、降り出した雨に慌てていると少し発作が起きてしまい、歩けなくなってしまったのだという。

「極端に激しい運動をしなければ問題ないんです。でも、時々、苦しくなる時があって、それで……」

 光希は、なんと言葉をかけていいか分からなかった。

 春香は、そんな光希を見て微笑んだ。

 その笑顔は、雨に打たれたせいで肌寒かったが、心まで温めてくれるような温もりがあった。

 それは、とても可憐で美しいものだ。

 バス停の屋根を打つ雨音が、急に強くなったように感じられた。

 春香は、持っていたタオルを畳んで返す。

「ありがとうございます」

 光希はそれを受け取って、鞄の中にしまう。

 二人は、ベンチに座って、しばらく黙っていた。

 すると道路の向かい側を二人の少女が雨に濡れながら走って行くのが見えた。

 彼女たちの制服には見覚えがあり、それは隣の中学校のものだ。

 彼女達は、鞄を傘代わりにし突然降り出した雨の中を走りながら笑っている。

 まるで、それが楽しくて仕方がないかのように。

 その姿を春香は羨ましそうに見ていた。

「いいな……」

 春香は、小さな声で呟く。

 光希にはその意味が分からなかったが、彼女が何を望んでいるのかは何となく分かる気がした。

「私も佐京さんみたいに武術ウーシューができるくらい強かったら、あんな風に走れるのかな……」

 春香は、再び独り言のように言った。

 その声は、小さすぎて、雨の音にかき消されてしまっていた。

 でも、光希の耳には確かに届いていた。

「渡瀬さん。僕は強くはないよ」

 光希は、春香の目を見ながら、はっきりと言う。

 彼女は驚いた表情で光希を見る。

 そして、春香は首を横に振った。

「でも、私を助けてくれました。武術ウーシューをされているそうで、それは、強いからじゃないんですか」

 光希は、春香の言葉を聞いても、首を横に振った。彼は自分の右手を握り込み、拳を見つめる。

「強さは身体の力じゃないよ。心の中に強い意志を持っていて、それに従って行動できたときに初めて発揮されるものなんだ」

 光希は、自分の胸に手を当て、言葉を紡ぐ。

 春香は、じっと光希の話に耳を傾けた。

 そして呟く。

「……心の中に強い意思を持つ」

 光希は、自分の気持ちを言葉にする。

「自分の弱さと向き合い、自分の中の弱い自分を認めることで、やっと本当の意味で強くなることができるんだ」

 光希は告げた。

 身体だけが強くても意味が無い。

 強さとは、心に宿る意思の強さなのだと春香は知った。

 光希は、隣に座る春香に目を向けながら、自分の想いを伝えた。

 それは、春香の心に届くのに十分なものだった。

 春香は、再び自分の胸を押さえて思いに浸る。

「……私。身体が弱いことを言い訳にしていました。仕方のないことだからって。でも、佐京さんの言葉で気付きました。私、強くなりたいです」

 春香の独白の意味が光希には分からなかった。

 すると、春香は事情を説明し始める。

「佐京さん。実は私、演劇部なんです。私の夢は、舞台に立ってみんなの前で演技すること。そして、たくさんの人を感動させてあげることです」

 春香は、光希の顔を見て言う。

 光希は春香の目に力を感じた。

「今度、文化祭の出し物で、シェイクスピアの『リア王』をするんですが、主役のコーデリア役の子が、家庭の事情で転校になり、急遽、私が主役をやることになったんです。

 でも、私はセリフを覚えられないし、感情表現も下手だし全然ダメなんです。いつも失敗ばかりすることばかり考えて、失敗を乗り越える勇気を持ち、新しい挑戦に向かって進んでいく決意を固めることができないでいました。

 私なんかが主役なんておこがましいかもしれないけど、それでも、どうしてもやってみたくて。少しでも上手になりたいんです」

 春香は、真っ直ぐに光希の顔を見て言った。

 その目は、希望に満ち溢れていた。

 光希は、力強く答えた。

「凄い。頑張ってください。僕、渡瀬さんの演劇を観に行きますから」

 光希がそう答えると、春香は微笑んだ。

 

 ◆


 文化祭当日。

 渡瀬春香は、舞台に立つことになった。

 彼女は、舞台袖で中世ヨーロッパをイメージした衣装に身を包み、ミディアムストレートを結い上げている。

 化粧をしていないにも関わらず、彼女は、持ち前の気品から、とても美しく見える。

 春香は、緊張していた。

 心臓がバクバクして、手足が震える。

 自分がちゃんと演じられるだろうか?

 上手くできるのだろうか?

 セリフを言えるだろうか?

 そんな不安が押し寄せてくる。

 だが、春香は、必死にそれを振り払った。

 自分は、もう逃げないと決めたのだ。

 その気持ちを胸に、春香は精一杯の演技をした。

 演じる『リア王』は、シェイクスピア四大悲劇の一つ。

 ブリテンの王であるリアは、高齢のため退位するにあたり、国を3人の娘に分割し与えることにした。

 長女ゴネリルと、次女リーガンは巧みに甘言を弄し父王を喜ばせるが、末娘コーデリアの実直な物言いに立腹したリアは彼女を勘当し、コーデリアをかばったケント伯も追放される。彼女は勘当された身でフランス王妃となり、ケントは風貌を変えてリアに再び仕える。

 リアは先の約束通り、2人の娘ゴネリルとリーガンを頼るが、裏切られて荒野をさまようことになり、次第に狂気にとりつかれていく。

 リアを助けるため、コーデリアはフランス軍とともにドーバーに上陸、父との再会を果たす。だがフランス軍はブリテン軍に敗れ、リアとコーデリアは捕虜となる。

 ケントらの尽力でリアは助け出されるが、コーデリアは獄中で殺されており、娘の遺体を抱いて現れたリアは悲しみに絶叫し世を去る。

 これが、『リア王』のあらすじだ。

 春香は、コーデリアの役だ。

 この演劇は、アレンジが行われコーデリアを主役として演じられる。

 主役であるだけに春香は他の生徒よりセリフが多く、動きも多い。

 しかも、父や姉に裏切られるというコーデリアの悲哀に満ちた人生を表現するために、激しい感情表現が要求される。

 練習中、春香は自ら何度もNGを出した。

 春香は、必死になって覚えようとした。

 しかし、セリフはなかなか頭に入ってこない。

 何度やっても、同じところで間違えてしまう。

 春香は、自分が情けなくて涙が止まらなかった。

 そんな時、春香は光希のことを思い出す。

『強さは身体の力じゃないよ。心の中に強い意志を持っていて、それに従って行動できたときに初めて発揮されるものなんだ』

 そうだ春香は弱い身体だが、それを克服しようと懸命に努力している。

 光希の言葉を思い出し、春香は再び台本を読み始めた。

 練習を繰り返す。

 ただ覚えるだけではない。コーデリア自身になりきる。

 すると不思議なことに、少しずつ台詞が頭に入ってくる。

 春香は、光希の言葉を信じ、稽古に臨んだ。

 そして、本番当日。

 体育館には、多くの観客が集まっていた。

 光希も、春香の晴れ姿を見に来ていた。

 春香の演技は、光希の予想を遥かに超えた素晴らしいものだった。

 彼女の演技は、見る者の心を揺さぶっていた。

 魂の籠もった、とても素晴らしいものだ。

 観客たちは、春香の姿に釘づけになっていた。

 光希は、春香の美しさだけでなく、その演技に見惚みとれてしまった。

 春香は、舞台の上で懸命に演じた。

 観客の心をつかむような魅力的な演技だった。

 春香は、自分の力で運命を切り開いていった。

 ラストはコーデリアが、牢獄に居たリア王と再会する。

 原作とは逆の終焉ではあるが、この演劇はあくまでも原作をアレンジした演目だ。

 春香は、牢獄の中で倒れていたリア王の元に走り寄る。

 哀しみながらリア王を抱き起こす。

 その瞬間、春香は胸に鈍い疼痛を覚えた。

(こんな時に……)

 春香は、痛みに耐えながらリア王に声をかける。

 それは、まるで自分自身を鼓舞するように。

 そして、リア王の頬に手を当てて、優しく語りかける。

 春香は経験から軽い発作には慣れていた。そんな時は、少し安静にすることで症状が治まることも知っていた。

 だから、春香はアドリブを入れて時間稼ぎをすることにした。

 春香は、リア王に自分の思いを伝える。

 リア王は、ゆっくりと目を開く。

 そして、目の前にいる少女の姿を見た。

 リア王は驚いた表情を浮かべる。

 春香は、自分の演技に集中する。

 自分の身体が震えていることに気付く。

 症状で額だけでなく、手が汗ばんでいる。

 それでも、春香は演じ続ける。

 それは、コーデリアの一生の物語。凝縮された人生を、演者である春香のミスで台無しにできない。

 作り話ではあるが春香はコーデリアになりきり賢明に演じる。

 台本でのラストは、コーデリアがリア王を抱き起こし、リア王はコーデリアの腕の中で死んでいく。

 だから、春香はリア王を抱き起こさなければならないのだが、胸の痛みの為に上手く演技ができない。

 春香は焦りながらも、なんとか演じる。

 その時、ふと観客席に目をやると、そこには光希がいた。

 光希は、舞台に立つ春香をじっと見つめていた。

 春香と目が合うと、光希は彼女が何をしたいのかを察した。すると光希は手を、キツネの手にした。

 それを見た瞬間、春香は思い出す。

 光希が動けなくなった春香を抱き起こした古武術介護のことを。

(そうだ。佐京さんが教えてくれた方法。確か、こう……)

 春香は、リア王の身体に両腕を回すと、キツネの手を両手とも作る。

 手首の内側を重ね合わせる。

 そのまま肘を後に引いていくと、それぞれの中指、薬指がフックのように手首に引っかかる。

 その姿勢のまま春香は、リア王を抱き起こすことに成功した。

 不思議な感覚だった。持病の症状があるにも関わらず、春香はリア王の方が起き上がってくれたのではないかと思うような軽さで抱き起こすことができたのだ。

「お父さん……」

 春香はリア王に呼びかける。

 すると、リア王のコーデリアに対する謝罪と感謝の言葉で、演劇は終了した。

 客席から拍手喝采が起こる。

 春香は、演じきれたことに安堵のため息をつく。

 舞台の幕が下りる向こうに、春香は、光希の顔を見た。

 演劇が終了後に、春香は着替えもしないで舞台衣装のまま楽屋を抜けると、今一番会いたい少年の元へ急いだ。

「佐京さん」

 体育館の外で、春香は光希の姿を捉えた。

 光希は、春香の方を振り向くと笑顔を見せた。

 二人は申し合わせたように距離を縮め、再会を喜び合う。

「渡瀬さん、凄く面白かったです。何より渡瀬さんの演技が素敵でした」

 光希は、興奮気味に言った。

 彼は、春香の演じたコーデリアのことが忘れられなかった。

 彼女は、とても美しく、強く、そして、真っ直ぐだった。

 春香は、照れくさそうに笑った。

「そんなことありません。特に最後は台本通りにできないで失敗しました。でも、佐京さんに教えて貰った方法を使って何とかやりとげられました。アドバイスを送って下さり、ありがとうございます」

 春香は、自分の手を見つめた。

 あの時の感触がまだ残っている。

 胸に痛みを抱えたままだったが、古武術介護を使うことで演じ切ることができた。

「そんなことないよ。僕なんかよりずっと上手でしたよ。それに失敗を怖がっていたら何も変わりません。失敗しても、また挑戦すれば良いんです。それが、きっと成長につながるんだと思います」

 光希は、春香に笑いかけた。

 春香が、ずっと思っていたことを光希は言ってくれている。

 その言葉が嬉しかった。

「……佐京さん。私、話していなかったことがあるんです。実は、私生まれつき心臓が悪いんです」

 突然の告白に、光希は戸惑った表情を見せる。

 だが、すぐに真剣な顔になった。

「心臓って……。治療、できないんですか?」

 光希の恐る恐るした反応を見て、春香は自分の想いを伝えようと思った。

 生まれたとき、心臓に何らかの異常のある人はおよそ100人に1人いるといわれている。自然に治ってしまうほど軽い人もいれば、何回か手術をしなければならない人、心臓に負担をかけないよう運動を制限している人、残念ながら完全な治療ができない人など、さまざまな人がいる。

 心臓病の人は症状が出なければ普通の人と見た目は変わらない。

 しかし、症状が出ないよう、運動や日常生活に制限をかけて、自分で病気を調節しながら生活をしている。

 春香の病気は先天性のもので、薬や生活習慣の改善などで症状を緩和させることはできるが、根本的な治療をするには手術しかないのだ。

「手術をすれば完治するそうです。ただ、それに、もし失敗してしまったら……」

 春香は、ため息混じりに言う。

 彼女の目からは涙が流れていた。

「……ごめん。僕は、渡瀬さんが、そんな重大な病を抱えているなんて知らなくて。あの時、頑張ってなんて軽はずみなこと言って本当にすみませんでした。渡瀬さんは、今こうしているだけでも十分に頑張っています」

 光希は頭を下げた。

 春香の気持ちを考えることができなかった自分を責めていた。

 春香は首を横に振る。

 自分の病状を伝えなかったのは自分の方であり、心臓病を理由に同情して欲しくなかったからだ。

「心臓病手術の危険率はおよそ3~4%なんです。重症だと約30%、軽ければ1%以下の死亡率です。

 私は、失敗することばかり考えていました。自分の胸にメスを入れて心臓をさらけ出すことが、怖くて仕方ありませんでした。

 だけど、今日改めて思ったんです。失敗するかもしれないけど、挑戦してみたい。諦めたくないって。さっき佐京さんが言われたように、失敗を怖がっていたら何も変わりません。

 お医者さんには、手術の件は以前から伝えられていました。きちんと手術すれば、私はみんなと同じ様に走ったり踊ったりできるようになるんです。それは、今までの私にとって夢のようなことです。だから、手術を受けることにします」

 春香の言葉に光希は驚いた。

 彼女の目は真っ直ぐ前を向いていた。

 そこには、もう迷いはなかった。

 光希は、自分が間違っていたことに気付いた。

 春香を励まそう、何かをしてあげたいなどと偉そうなことを考えていたが、彼女は、自らの意思と勇気で前に進もうとしている。

 そんな彼女に、自分は何もできなかった。

 だから、せめて彼女が決めたことを応援することにした。

「……渡瀬さんが、そう決心されたなら、僕がとやかく言うことじゃないですね。渡瀬さんの決断を、心から応援します。渡瀬さんは、これから先もずっと舞台に立つ人です。舞台の上で輝く姿を、また僕に見せてください」

 光希は春香の右手を、自分の両手で包むように握りしめていた。

 意識しての行動ではなかった。

 日本には握手という文化はない。

 だが、「手と手を取って喜び合う」という表現方法が古くからあった。

 『古事記』に史料として見られるだけでなく、軍記物にも家臣の労をねぎらって手を取る行為が記されている。

 歌舞伎などを観ると、古来の日本人として両手を握り合って愛情表現をする行為が見受けられる。

 衆人環視のもとでの挨拶ではなく、人目につかない所で行なうお互いの愛情確認。これらから、江戸時代まで日本人の手を握り合う行為とは、喜びや愛情を表現する究極のスキンシップだったと言える。

 光希の言葉を聞いて、春香は思わず涙が溢れた。

 彼女は、身体の心配のないまま、ずっと舞台に立ちたいと思っていた。

 その願いが叶うかもしれない。

 それを望んで応援してくれる人が居る。

 そのことが、嬉しかった。

 春香は、涙を流しながらも笑顔を浮かべる。彼女も意識することなく、左手を光希の手に当て握り合う。

 そして、春香は力強く答えた。

「はい。私、頑張ります」

 その目には、強い決意の光が宿っていた。

 すると、そこに春香の女友達が姿を現わす。

「ねえ、春香。これから、演劇部で打ち上げ……」

 女友達は、春香と光希が手を握り合っている姿を見て固まってしまった。

「あ……。お邪魔だったかな」

 そして、気まずそうに友人は呟くと、春香と光希は自分達が手を握り合っていることに気づき二人は慌てて互いの手を振り払う。

 春香は弁解した。

「ち、違うの。これはね……」

 春香は友人の元に寄ると事情を説明する。

 光希はその様子を微笑ましく見ていた。

「渡瀬さん。僕はこれで」

 光希はその場を離れようとすると、春香は名残惜しそうに彼の背中を見つめた。

 春香は、光希に自分の挑戦を伝えることができて満足していた。

 しかし、彼と離れるのは寂しい。

 もっと一緒に話をしたいと思う。

 でも、これ以上引き止めることはできなかった。

 そう思ってうつむいていると、光希が振り向いた。

 彼は、春香に笑いかける。

「またね」

 その言葉に、春香の顔には笑みが浮かぶ。

 今度、光希と会う時は春香はステージの上だろうか。

 でも、また会える。

 その日が来るのが春香は待ち遠しかった。

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