第十八話 新たな拠点

 アンジェがきょろきょろと辺りを見回してしまうのは、初めてグリムの街に出たからだ。


 まず、行き交う人の数が貧民窟と違っている。それにともなって、音の数が多い。貧民窟では、静寂の中を自分一人だけの音が響く。他者から姿を隠すように息を潜めて暮らしている者が多いからだ。


 しかし、街では他者の足音や話し声で活気がある。くわえて、身なりが貧民窟の住民と比べてきれいだ。もちろん、見た目が派手であるといったものではなく、きちんと整えられている点での比較だ。


 アンジェの服装はぼろぼろである。補修にもお金はかかるため、着られるのであればいいや、と後回しにしていた。みっともない姿を日の元に晒すようで、恥ずかしさを覚える。


「ひとまず……拠点を見つけないと」


 呟くヨトの姿は、冒険者として受け入れられる恰好だ。戦うことを想定した厚手の服に、胸や肩に脚といった要所に簡素な鉄板が取り付けられている。少し大きめに思えるのは、ヨトみたいな子供が付けることは想定されていないからだろう。


「ヨトは、泊めてくれるような知り合いっている?」

「いない……」

「なら、どっかの宿屋に行くしかないね……」


 二人揃ってため息を吐く。


 二人に潜り込める家を持つ知り合いはいない。従って、宿屋に頼らなければならないが、当然、お金がかかる。それもアンジェがヨトに提示していた金額よりも高いだろう。


 つくづく、あの小さな家の存在を惜しく感じるし、追い出してくれたルドバへの恨みつらみが、ふつふつと湧いてくる。


 それに、冒険者となる以上、アンジェもヨトにならって装備を買わなければいけない。火の魔法という武器を持っているが、それだけでは戦闘に置いて心もとないだろう。


 お金はなかなか入用だった。


「なるべく、安い宿屋にしよう」

「うん、どこがいいの?」

「……いや、わからない」


 二人揃ってため息を吐く。


 そう、何もわからない。ヨトはよそから来てすぐ貧民窟に潜り込んだし、アンジェは貧民窟が出たのは初めて。街の生活のあれこれなんてわかりっこなかった。


「そうだ、聞けばいい。知ってそうな人に」


 ヨトが腕を組んで頷いた。


「まず、冒険者ギルドへ行こう。アンジェの登録もできるし、知り合い……、と言えそうな人もいる」

「う、うん」


 ヨトのあやしげな物言いに、アンジェは否定することこそないがあやふやに応えるしかない。


  *


 アンジェがギルドの面する大通りの人の多さに驚き、そしてギルド内の密集度にも驚いた。


 ヨトはすいすいと歩いていき、アンジェは慌ててついていく。ヨトの後ろ姿は、なるほど、この場に相応しい冒険者であると言えるかもしれない。少し、小さいけれど。


 ヨトが立ち止まった受付には、手入れの行き届いた身なりの女性が立っていた。どうやらギルド職員の制服らしく、辺りにも同じ服装の人たちがいる。


「ベルさん」

「こんにちは、ヨト様。本日のご用件は?」


 ヨトが呼びかけると、女性は波打った茶髪をわずかに揺らし、愛想の良い笑顔を浮かべた。


 きれいな人だ、とアンジェは純粋に感じた。どうやらこのベルという女性が知り合い、と言えそうな人らしい。


「今日は、おれじゃなくて」


 そう言ってヨトが退いたので、アンジェが前に出る。


「冒険者登録をしに来ました」

「……わかりました」


 アンジェが告げた途端、かすかにベルの表情が崩れ、しかし、瞬時に建て直し頷いたことで、大きな違和感を抱かさせずに流した。


 ベルは例によって淡褐色たんかっしょくの紙とペンを差し出す。


「こちらに名前、性別、年齢、出身地をご記入してください」


 アンジェが言われた通りにペンを取ると、ヨトが口を開いた。


「ベルさんに聞きたいことが、あるんですけど」

「はい、何でしょうか?」

「安い宿屋って、知ってますか? 拠点を探してるんです」

「少し、待ってくださいね」


 そう言うと、ベルは手元に手帳を置いた。装丁そうていがぼろぼろ、くたくたになっていて、長らく使われているものだと一目でわかる。


「これ、受付嬢の先輩たちが、冒険者の方によく聞かれることをまとめたものなんです。私はまだ新人なので、使わせてもらってますが、先輩たちは全部覚えてるらしいんですよ」


 ベルのほっそりとした白い指が手帳をめくっていく。目当ての項目を見つけたのか、指先が紙面の上をなぞる。


「そうですね……、ギルドから少し遠いですが、走る白馬亭や月と豚の宿などが、よく銅級冒険者の方に利用されていますね」


 ベルは続けて場所を説明し、話し終わったところを見計らい、アンジェは紙を手渡した。


「アンジェ様ですね。登録は受け付けました。講習は、三日後になります。その後、登録依頼を受注でき、達成すれば冒険者となります」


 そこまで言って、ベルの視線がほんの一瞬だけヨトへ向けられた。そのことを自覚したヨトはかすかに唇を噛む。


 それは、アンジェが知らないことを、二人は共有しているということだった。


 アンジェがヨトと関わったのは、ヨトが大怪我をしていたからだ。そこに何か事情があるなんてことは、とっくに気付いている。なのに聞きださないのは、ヨトの泣きそうな顔が思い浮かぶからだ。


 いつか、絶対に、ヨトから話してもらう。しかし、それは今ではない。意識を反らす。


「講習というのは、必ず受けないといけないんですか?」

「基本的には、そうです。しかし、兵士などの訓練を受けたことのある方は、その限りではありません」

「……わかりました」


 アンジェは基本的に、の部類に入る。


「今日は、これだけで。ありがとうございました」


 ヨトが会釈したので、アンジェも続ける。


「いえいえ、これも受付嬢の業務の一つなので! また何かあれば、いつでもいてください」


 ベルは殊更ことさらに愛想の良さを強調する笑顔を浮かべた。




 アンジェの冒険登録とヨトの聞き込みを終え、ギルドから出て向かったのは、走る白馬亭、という宿屋だった。


 人が行き交う大通りを川の本流とするなら、その宿があったのは静かに流れる支流のような通りだった。人の波と喧騒はすっかりと落ち着いている。静かな世界で生きてきたアンジェにとっては、こちらの方が良いと感じた。


 石と木を組み合わせて作られた建物には、まさしく脚を振り上げ走っている小さな馬の絵が描かれた看板を取り付けている。


 これなら、たとえ文字が読めなくても、ここは走る白馬亭なんだな、と一目でわかる配慮がされている。


 白い文字で走る白馬亭と書かれた扉をヨトが開けると、「いらっしゃい」と感情の起伏を感じさせない声が二人の耳に届いた。


 亭主はふくよかな中年の女性だった。


「こちらにしばらく、宿泊したいのですが」


 アンジェが前に出て言った。亭主は胡乱うろんな目を向ける。


「あんた冒険者かい」


 ヨトにだけ向けられた言葉は、恰好で判断されたんだろう。ヨトがはい、と頷くと、亭主が手を伸ばす。


「冒険者登録証を見せな」


 アンジェはその様子に愛想がないな、と思ったが、それはついさっき愛想の良いベルを見たせいであり、ギルド職員が特別、愛想が良いというだけだ。貧民窟の接客はこれよりもさらに、もっと、と付け加えてもいいくらい悪い。


 亭主は、ヨトが手渡した冒険者登録証を確認すると、次はアンジェに視線を向ける。


「あんたは何だい」

「冒険者、見習い……? です」


 何と聞かれても、あやふやにしか答えることはできない。だってまだ、冒険者ではないのだ。


 亭主はふん、と鼻を鳴らし、それ以上、突っつこうとはしてこなかった。不機嫌、というか怪しげなものを見る目は、もしかしたら、ヨトは女を連れ込む冒険者、アンジェは冒険者が連れ込む女だと認識したのかもしれない。


 子供なのに、とアンジェはヨトにも向けた言葉を心の内で呟いた。ただ、なんとなく、そう勘違いする大人の姿がおかしく思えて、笑いそうになった。


 冒険者の下宿先となることが珍しくないようで、話は滞ることなく進んでいく。


 亭主の話し方こそぶっきらぼうであるものの、説明すべきところはきちんと説明する、商売人の誠実さを感じさせた。


 日毎に部屋を借りるのではなく月毎の方が安いとか、食事をするなら一階でやっている食堂を利用しろとか。


 部屋は二人で一室。当然寝台は二つある。部屋はアンジェの家よりも広く、小奇麗に整えられていた。


 はっきり言えば、アンジェの家よりもはるかに快適だった。


 アンジェは寝台に身を投げ出した。体が吸い付くのは、寝台が柔らかいのもあるが、体が疲労を覚えいているからだろう。


「うぅん」


 寝台の上で手足に力を入れ、大きく伸ばし、引き絞った弓から矢を放つようにぱっ、と力を抜いた。じんわりとした心地の良い熱が湧いてくる。


 あれだけ派手に火の魔法を使ったのは、人生の中で初めてだった。回復魔術を使った時とは別の倦怠感が体にまとわりついている。


 横を向けば、軽鎧を脱いで寝台に腰かけているヨトと目が合う。


「疲れた……」


 ぽつり、と呟いたヨトに、目をほそめて同意する。


 これからしばらく見ることになるんだな、とアンジェが天井をぼんやりと眺めていると、今までのこと、これからのことを考えてしまう。


 貧民窟から出たいとは思っていても、出てどうするか、なんてことは考えていなかった。冒険者になる、なんてことはもってのほか。


 不安はある。でもそれ以上に勝算というか、希望というか、そういった類のものがあると思えた。


 ヨトの生み出した魔術の風が背中を叩く感覚を、しばらく忘れられそうにない。


 ヨトから吹き出す灰色の風に乗せられて、貧民窟から街で踏み出したのだ。


「……登録依頼って、何をするの?」


 アンジェはヨトの目を、しっかりと見つめた。踏み込んだことを自覚した。深い水の底を思わせる青い瞳が揺らぐ。


「……血鼠の討伐とナギリ草の採集だけだよ」


 ヨトは寝台の上に倒れ込む。


 ふいに、アンジェは母を思い出した。母はかなしげに、「つらいことも言い合える誰かがいたら、きっと幸せなんだろうな」と言っていた。その誰かが母にはいなかったということであり、その誰かに幼いアンジェはなれなかったのだ。


 つらいことも言い合える誰かを、アンジェはいてほしいと思っている。それは自分自身のそばにも、ヨトのそばにも。


 誰だって幸せになりたいと願っているのなんて当たり前だから、他人の幸せを願ってもいいはずだ。


 だから、ということではないけれど。


「ねぇ……、いつか話してよ。ヨトがさ、冒険者になった理由」


 漏れ出た声は自分でも驚くほどやさしいものだった。


「……うん」


 少しの間を開けて、ヨトはほんとうに小さな声で返した。


 今はそれでいいや、とアンジェは目を閉じた。

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