第二章 貧民窟の火

第七話 有償の善意

 太陽が沈むと、まず〈黄金の月〉が昇る。大きな星が放つ金色の輝きは、暗い夜空を彩る宝石みたいだった。この日は三日月だった。


 少し経つと、〈黄金の月〉を追いかけて〈白銀の月〉が昇る。〈黄金の月〉より小ぶりだが、銀色の輝きは勝るとも劣らない。〈白銀の月〉は、いつの日も満月だった。



 薄暗い貧民窟の道を、アンジェは二つの月下を浴びながら進んでいく。今日は特に風が冷たい日で、はやく家の中で温まりたい、という気持ちが帰宅の足取りを速めていた。コツコツと軽快な音を鳴らす靴は、三年前に死んだ母のお下がりで少し大きい。母からもらったものは、たくさんある。今一番、恋しい家もそのうちの一つだ。もっとも、大きさを考えると小屋と言えるものだった。


 仕事を終えた帰り道だ。アンジェは、治癒術士として貧民窟で立場を確立している。回復魔術を使った治療を施し、生計を立てている。


 アンジェが一人で生きていられるのは、火魔法をおかげでもあった。アンジェはまだ子供だが、母譲りのきれいな顔立ちをしている。だから、ときおり降りかかる身の危険に、手のひらに火を灯し、「燃やすよ」と言い放つのだ。そうすれば、大抵のごろつきは尻尾を巻いて逃げていく。幸運なことに、今までに人を燃やしたことはなかった。


 アンジェが家の前にたどり着くと、斜向はすむかいに並ぶ建物の隙間に視線を投げた。少年が壁に寄りかかって眠っている。


 冒険者登録依頼を終えたヨトだった。


 数日前からそこにヨトが住み着いていることを、アンジェは把握している。家から出ていく時、そして今みたいに家へ帰る時、つい様子を確かめてしまう。外から来た同年代の子供ということで、好奇心から話しかけたことはあったが、名前くらいしか聞くことができなかった。そういう者は、大抵そのまま死んでいくか、さらわれるかの、どちらかだった。


 アンジェの中に、同じ年頃の子供にほんの少し共感し、死んでほしくないな、という純粋な感情がある。とはいっても、助けることはなかった。アンジェにはそんな余裕がないのだ。もし自分が大金持ちだったら、助けてやれるのに、と全くもって無駄な思考が湧き上がる。だからちょっと、近づいて様子を見てしまった。


 血の臭いがした。


「ちょっと……!」


 治癒術師の真似事をするアンジェは、当然怪我をした人間を相手にすることが多い。それ故に血の臭いに敏感だった。つい、手を伸ばして、頬に触れる。ひやりとして感触に、アンジェの心臓が跳ね上がるが、微かに上下する体に気づいた。


 薄暗い中、アンジェが目を凝らせば、右肩に治療された痕が見える。だが、顔色が悪く、体力を大きく失っているようだ。冷たい石畳の上で体が休まるはずもない。


(こんなのところで寝ていたって、良くはならないよ……)


 アンジェの顔が歪む。助けたい、という気持ちはあるが、自分の行いを安売りするつもりはない。無償の善意は、貧民窟の中をめぐりめぐって自分の首を絞める、と母から教わっていた。


 思わずヨトの顔から目を逸らす。罪悪感はもう、アンジェの中で大きなものになっていた。


 目を逸らした先に、ヨトが抱えているものが見えた。何かを食って腹を膨らませた袋だった。緩んだ口からは、何かが見えそうになっている。おそるおそる、中身を確かめるために指を伸ばす。


 今度は違う意味で、心臓が跳ね上がる。冷たくてかたく、掘り込まれたざらざらとした感触を知っている。


(お金だ……! まさか、これ全部……!?)


 アンジェの脳裏に懐かしい母の声が響く。「あなたは回復魔術が使えるのだから、盗みをして恨みを買う必要はないよ」


 アンジェの中で、やりたいことと、やるべきことが、がちりと噛み合った。


「よし……!」


   *


 ヨトはまず、体を包む柔らかな感触と、心地よい温かさに気付いた。ゆっくりと息を吸うと、藁の香りが鼻の中に広がっていく。


 体が鉛のように重く、頭痛がしている。


(ずっとこのまま寝ていたいな……)


 そんな考えが、頭の中を侵食し始める。


 しかし、頭の中の隅っこから浮かび上がったのは、石畳の硬さと頬を撫でる冷たい風。


 むりやり起き上がったヨトの肩に痛みが走り、怪我をしていたことも思い出すことができた。思わず肩に手をやったヨトの視界の端に動くものが映る。


 膨らんだ白い布から、もぞもぞと出てきたのは、金髪の少女だった。少女はあくびをして、まぶたを開けた。涙に濡れたくりくりとした目と、ヨトの視線がぶつかった。


 少女が白い布から出て立ち上がる。ヨトは、感じる温もりが減ったことに唖然あぜんとし、少女はその様子を気にせず体を伸ばした。


 血色の良い白い腕がすらりと伸び、首の後ろで無造作に束ねられた暗い金髪が揺れる。少女が振り返ると、小さく差し込む朝日が長い髪にあたり、きらりと輝く金色が散らされる。


「おはよ。……顔色、わるいね」


 少女はそう言うと、身を乗り出してヨトの額に細く白い手を当てた。


「……熱があるかも。どう? 体はだるい?」


 体を気遣うような少女の声色に、ヨトの緊張が少し和らいでいく。目の前の少女には見覚えがある。ヨトは落ち着いて、呼吸を繰り返しながら鈍い頭の中を探索する。


(確か、名前を聞かれたことがある……)


「……アン、ジェ?」

「そう!」


 アンジェは、花が咲いたみたいに笑った。


「あのまま、あそこで寝てたら死んでたかもよ? 体が冷たくて死にかけ、って顔してたし」


 もしかしたら死ぬかもしれない、という気持ちは確かにあった。ただそれ以上に、このまま泥のように眠ってしまいたい、と思った。


 ヨトはそんな暗い考えを振り払って周りを確かめる。木の板を打ち付けた壁からは、小さな日の光がいくつか差している。ヨトが寝ていたところは、重ねた藁に布がかけられたもので、床は石畳にむしろを敷いただけのものだった。


「体が、重い。それと、頭痛も。……ここは?」

「わたしの家」


 アンジェはにやりと笑い、手のひらを上にしてヨトへ差し出した。


「治療代と宿泊代、合わせて五百オアね」

「……治療?」

「そ、肩の傷、もう治りかけているでしょ? わたしの中級回復魔術のおかげね」


 ヨトは肩の傷を確かめる。まだ痛みは残っているが、体が熱くなるような激痛ではないし、ある程度は動かせている。断りもなしに、と思ったが、寝る前のことを考えるとありがたいことかもしれない。


 ヨトは自分が荷物を持っていたことを思い出した。慌てて周囲を探ると、すぐそばに袋が置いてあった。


「一枚も盗ってないから、安心して」


 そう言われても、ヨトはいくら入っていたか確認もせずに、ふらふらとギルドから貧民窟に帰ってきている。ヨトが中身を確かめると、金貨や銀貨がいくつか入っている。数えると、全部で四万オアになった。


(大金だ……)


 ヨトが毎日毎日、腹いっぱいに食事をしたって半年以上はもつだろう。


「ん」


 催促するアンジェの手のひらに、ヨトは袋から取り出した大銀貨五枚を乗せた。


「まいどありっ」


 アンジェは満足そうに大銀貨を握りしめる。


「朝ごはん、買ってきてあげよっか? 三十オアだけど」


 ヨトはさらに小銀貨一枚を渡した。アンジェは、それらを腰に紐でくくってぶら下げている袋に入れる。人の顔よりも大きな袋は、使い古された物だったが、何度も修復されたような跡が見える。


「お釣り、ちゃんと返せよ」

「わかってるって!」


 アンジェはそう言い放つと、家から飛び出した。


 ヨトは藁の寝台に寝転んだ。体と心が休まっていくのがわかる。


 アンジェがヨトを助けたのは、袋に詰まった大金を見たからであり、盗むのではなく、商売として金を得ようとするのは、純粋な善意だ。


 ヨト自身、アンジェの行動はありがたいと思っている。堅い石畳の上で、しかも冷たい風を浴びながら眠りにつくのは、体もだが心にも堪える。



 ヨトが低い屋根をぼんやりと眺めて考えていると、木の戸が開いてアンジェが入ってくる。手にはパンが二つ。


「はい、これ」


 ヨトはお釣りとパンを受け取った。それは見るからに硬く、真ん中を縦に切ったところへと焼いた肉と野菜が詰められている。期待はしてなかったが、実際に冷めている食事がくれば、少し物悲しい気持ちになる。


 アンジェは筵の上にそのまま座って、硬く冷めたパンをものともせず、かぶりついた。


「体の調子が良くなるまで、特別に家においてあげる。一泊、百オアね」

「……助かるよ」


 商魂たくましいアンジェに、ヨトは自分よりも生きるのが上手そうだと感じた。きっと貧民窟の中でも上手く立ち回って、安全な生活を確率していることだろう。


 冷たく硬いパンは、やはりというか、ギルドの酒場の食事と比べて満足できる味ではなかった。


 パンを食べ終えたアンジェが立ち上がる。


「そろそろ仕事に行かなくちゃ」

「仕事?」

「わたしは、貧民窟で数少ない治癒術士なの」

「ああ……」


 回復魔術を使えれば、それで金を稼ぐことができるだろう。ヨトの世話するのは、さしずめ副業と言えるかもしれない。


「昼には一度帰ってくるけど、寝てていいからね」

「そうさせてもらうよ」


 家を出るアンジェを、藁の寝台の上で見送ると、ヨトは眠気に逆らわず意識を手放した。ここで悪い夢を見たくないと願いながら。

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