五 始まりの農村

 その村はどこにでもある農村だった。広大ではないが、目の前いっぱいに広がる麦畑。麦の穂は黄金色に輝き、透き通るような青空との対比。そしてその反対側には麦畑に負けない程大きな葡萄畑があった。葡萄は収穫の時期で、多くの農民達が収穫の作業に追われていた。それらの中ほどに教会を中心とした広場があり、その周りに集落ができている。

 教会は質素なつくりをしていて、その周囲に住む村人達の家々も質素なものだった。木造建築のそれらは、少なくとも村人を守るためだけの力は持ち合わせているようだった。

 農民の暮らしは決して贅沢ではない。冬は寒さに耐え、夏には雨を祈り、実りの季節が来ると収穫に追われる。彼らは今年の実りを神に感謝するための盛大な祭りを楽しみに生きている。

 老人と少女は魔獣避けの柵の合間にある門から村に入り、村の中心の広場に向かった。少女は初めて見る農村の風景を興味深そうに、キョロキョロと首を振って歩いていた。広場には子供たちが走り回り、それを温かく見守る老人たちがいた。若者は皆収穫に駆り出され、村にいるのはほとんどが子供と老人だった。

 子供たちが老人と少女の二人に気づいて、がやがやと集まってきた。

「わあ、旅人さんだ。こんにちは」

「こんにちは、元気な子供たち。領主さんと司祭さんはいるかな」

 老人は優しい声で話しかけた。

「うん、教会にいるよ。明日からお祭りの準備があるから、いろいろ話し合ってるみたい」

「そうなのですね。私たちがお邪魔しても迷惑ではないでしょうか?」

 少女は少し遠慮がちに言った。

「大丈夫、長老も司祭さんも優しいからね。僕たちがいつ行っても楽しそうに笑ってくれるよ。一緒にいこう」

 子供たちは屈託のない無垢な笑顔で答え、少女の手を引いて、教会に向かって走り出した。それを老師はゆっくりとした足取りでついていった。

 少年が教会の扉を勢いよく開け、中に入ろうとしたところ、司祭の格好をした老人と、恰幅の良い初老の男がちょうど扉に手をかけようとしているところだった。初老の男の顔にはやや大きな傷跡があった。少年と二人はぶつかりそうになったが、司祭は彼をとっさに抱き留めた。

「あ、ごめんなさい、司祭さん、領主さん」

「やあ、今日も元気だね」

 司祭は少年に優しく言った。

「おや、お客さんかな」

 司祭と領主は少女と老師に気づいて、少女は申し訳なさそうに、小さくお辞儀した。

「こんにちは、かわいい司祭さん」

 そういって司祭は老師のほうを見た。老師は司祭の顔を見ながら、少し口元を緩めて、小さく頷いた。

 司祭は姿勢を正し、深くお辞儀をした。

「お久しぶりです」

「こちらこそ、あの時以来ですね、ご無沙汰しております」

 男も司祭にならい、姿勢を正し、一礼した。

 そして二人とも朗らかな笑みを浮かべ、老師の肩をぽんと叩いた。

「まったく、懐かしいのが帰ってきたもんだ」

 二人は声を揃えて言った。少女は二人の意外な言動に戸惑いを隠せなかったが、誰もそれを気にする者はいなかった。


  少女と老師は村の領主の邸宅に案内され、もてなしを受けていた。テーブルには、質素とはいえ、その村では贅沢な材料を使用したパンやスープ、肉料理といった物が並んでいた。

「しかし本当に久しぶりだ。あれから何年経っただろうか。私たちとつるんでいたわんぱく小僧が旅立って、そして世界を救ったなんて、今でも信じられないくらいだ」

 領主はからかい半分に、しかし尊敬を込めた口調で昔話しを始めたので、老師は少しバツが悪い顔をして苦笑いをして、少女は珍しいものを見るような目で、時折りくすくすと笑って相槌を打ちながらそれを聞いていた。



 かつてその村には青年がいた。青年は荒っぽく、腕っ節も強く、悪友と悪巧みばかりしていた。しかし村から追い出されるようなことはなかった。青年達のような腕っ節の強い荒くれ者しか、無謀もしくは果敢に魔獣に立ち向かえる村人はいなかったのだから。青年はそのことを半ば誇りに思っていた。


 ある時、旅人の老人が現れた。異国の風貌をしており、少しやつれていた。老人はこの国よりはるか東から旅をしてきたと言った。村人達は少ない食料でも、老人をもてなした。老人は村長の計らいで、村にしばらく住むこととなった。

 数日後、魔獣が村に現れ、家畜を襲おうとしていた。気づいた村人が悲鳴を上げ、村は騒然となった。

 その時、村人達と広場で談笑していた老人は椅子からスッと立ち上がり、滑らかな所作で広場を後にし、するりするりと駆け出して悲鳴の元へと駆けつけた。すでに数人の自警団の村人達が魔獣を取り囲んでいたが、魔獣と彼らは膠着状態にあった。

 老人は彼らの間をすり抜けて前に出て、魔獣と対峙した。

「老師殿、危険です」

 一人の自警団の男が声を上げた。

「いえ、下がっていてくだされ。一宿一飯の恩義、返さねばなりません」

 そう言った老人に魔獣が飛びかかった。

 老人は魔獣の爪を紙一重で身をかわすと同時に魔獣の懐へ入り込み、傍目にはよく見えなかったが、掌打を魔獣に打ち込んだようだった。ミシリという鈍い音と共に魔獣が突き飛ばされ、その場で悶え、動かなくなった。

 

 数日の後、村のはずれの家畜小屋の裏にて、老人は青年達と向かい合っていた。老人はこの状況を少し不思議がっている様子で、対して青年達の目はギラつき、それは少なくとも穏やかではなかった。

「なあ、ジイさん。どうして呼ばれたか、分かってんだろうな」

 青年の仲間の一人が声を荒げて言った。彼の顔にはやや大きな、まだ治りかけの傷があった。彼らの中で最も体つきががっしりしていて、威圧感があるので、誰かに威嚇的な態度を取るのは彼の役目だった。

「はて、何のことでしょうか」

 老人は首を傾げながら、しかしどこか懐かしいものを見るような目つきを添えて言った。

「かまわねえよ、やっちまおう」

 青年は抑揚を抑えた声で、仲間の背中を軽く押した。それが合図となり、青年の仲間達は一斉に老人に襲いかかった。

 最初に老人に飛びついた男はそれと同時に身体が反転し、地面に転がされた。男の後に続いた傷の男はそれにつまづいて前屈みに大きく転び、顔面を強く地面に打ち付け、呻き声を上げた。

 残された青年は何が起こったのか理解ができずにいたものの、もはや闘えるのは自分一人だということだけはすぐに認識して、闘いの構えをとった。

 二人の男が悶えているのを尻目に、青年は老人との距離を詰め、渾身の力を込めて老人に殴りかかった。老人は僅かな動作で身をかわし、青年の突き出した腕を掴んだ。次の瞬間、青年の視界は反転し、青い空が見えた。身体が地面に転がっていたことに気がつくまで、一瞬の時間がかかった。

 慌てて起き上がり、老人の方に向き直るとそこにはにこりとした笑顔があった。

「舐めるなぁ!」

 青年は老人との間合いを見計り、鋭い蹴りを放った。と、思った瞬間に激痛に襲われ、股を押さえて転げ回り、悶えた。



 数か月後、青年は老人のもとで修業を重ねていた。青年自身は何が起こっているのかまだ把握できないでいた。突然旅人の老人が来たと思ったら、付いてきなさいと言われ、気がつけば鍛錬に駆り出されていた。

 修行は過酷なものだった。老人は青年にあらゆる体術、武器術を授けた。ケンカ仕込みだった青年の戦闘技術は洗練され、より強さを増した。魔獣数匹程度では青年一人の相手にならなくなっていた。


 そこからしばらく経って、百年ぶりにドラゴンの厄災が復活したという情報がこの村にも届いた。人々は怯え、怒り、悲しみ、狼狽した。

 青年は未だ老人の元で武術を学ぶ毎日を過ごしていた。そしてドラゴンの復活の知らせから三月ほど経ったある日、都の司祭が村を訪れた。

 今回の厄災で、神のお告げが下り、選ばれた勇者は青年だった。司祭は青年を勇者としてドラゴン討伐の命を青年に伝えた。

 村は青年を讃える雰囲気で色めきだった。ついにこの村から勇者が出る、と大きな催事が開かれ、青年は祝福された。

 祝福の後の夜、青年は師の元を尋ねた。師はやや薄暗い明かりを灯した部屋で瞑想をしていた。青年が師の家に入ってしばらくの間、老師は青年に気がつかなかった。青年は師の瞑想が終わるまで、静かに待っていた。

 老師の瞑想が終わり、青年に気がつくと、おやおや、という顔をした。

「友よ、宴は終わったのかな」

「はい、師よ」

「そうか、まあ、座りなさい」

 青年は師の住む、庵の座間に通され、床に座った。師の生まれ育った故郷では床に座るのが普通だったらしい。部屋の中心には土間が掘ってあり、そこでは焚き火が焚かれており、寒い冬を越すのには良いものだった。師の故郷で囲炉裏と呼ばれるものだった。

 青年と師は囲炉裏を挟み向かい合うように座った。青年は神妙な面持ちで、師は何とも取れない表情だったが、そこに優しさがあった。

「友よ、何か聞きたいことでもあるように見えるが、どうしたのかな」

 青年は意を決して口にした。

「どうしてあなたが勇者として選ばれないのですか、師よ。自分なんかより遥かに強いあなたが厄災を鎮めるに値すると思うのですが」

 それを聞いた師は優しく青年に諭した。

「私はもう歳だ。勇者や英雄となるには老いすぎている。友よ、君のような若く未来のある者が次の世界にふさわしいのだよ。それに、神の御意志には逆らえない。君がふさわしいと選ばれたのだよ」

「しかし、師よ」

「友よ、胸を張りなさい。選ばれたのは君だ」

 老師はそこで目が覚めた。部屋の外は明るく、ニワトリや家畜が鳴き、懐かしい故郷の土の匂いがした。

 

 


 少女と老師は二人で村の共同墓地を訪れていた。老師は一つの小さな墓石の前にひざまづいた。

「そのお墓が、老師様のお師匠様の」

 老師はゆっくりと頷いた。少女は老師の横に跪き、老師と共に両手を握って祈りを捧げた。

「ありがとう、一緒に祈ってくれて」

「お師匠様は、老師様に多くの事をお教えになられたのですね」

「ああ、師は私に多くのことを教えてくれた。闘うことだけでなく、生きるということそのものも。それはその時はわからなかったが、歳を取るにつれ、分かってきたこともあるんだ。そして、君と旅をしている今も何かを学んでいる気がするのだよ」

 老師は遠い目をしながら言葉を発した。

「師は私に戦いについて多くのことを教えてくれた。そして最後に教えてくれたのは、脱力という技術だった」

「脱力? 力を入れないということですか?」

 少女は不思議そうに言った。

「そういうことだね」

「力を入れなければ、強い力は出せないのでは?」

「普通の考えではそうかもしれない。しかし師は東の異国の人で、我々とは違う考え方を持っていたんだ。

「違う考え方、ですか」

 少女はますます不思議そうになった。

「例えば腕の力で打撃を打ち出すとする。その時の力は腕だけのものになってしまう。脱力によって体全体の力を拳に乗せることができるんだ。残念ながら私がそれを完全に会得する前に私はドラゴンの討伐に旅立つことになった。しかし年老いて、体力が落ちてしまった今なら、何となくだが理解できている気がするのだよ。私なりに会得した様子を師に見せられなかったのが心残りなんだ」

 そう言って老師は自分の手のひらに目をやり、軽く握ってその感触を確かめているようだった。

「そうだったのですね。でも、お師匠様はきっと老師さまが脱力を会得することを信じていたのだと、私は思いたいです」

 老師は目を細めてうなづき、

「ありがとう」と、もう一度少女に礼を言った。


 その後、老子と少女は村の収穫祭を見に行った。村娘たちを中心に、収穫した葡萄を踏んで、男たちがそれを囃し立てながら、ワインを作っていた。

 少女は村人に誘われ、一緒にワイン作りを手伝うことになった。村人達と同じ作業着に着替え、巨大な桶に入れられた大量の葡萄を踏む作業を、少女は少し恥ずかしそうに、しかし楽しそうに村娘達としていた。

 老師と村長、司祭はそれを微笑みながら見ていた。

 

 少女が老師の元に戻ってきた。少し疲れたような、それでも楽しかったような。やはり子供らしいと言った表現が似合う表情だった。

「どうだったかな、ワイン作りは」

「えへへ、葡萄を踏むなんて初めてで、なんだか葡萄に申し訳なかったです」

「うむ、それも一つの学びだね」

 

 数日村に滞在した後、二人は村を出発し、次なる目的地を目指して旅を再開した。

「どうだったかな、私の故郷の村は」

「はい、とても興味深かったです。それに、老師様の意外なことも知ることができて、面白かっったですよ」

 と、くすくす笑いながら言った。

 老師は一瞬の苦笑いのあと、いつもの優しい微笑みを浮かべた。

 

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