月面エルフと地球刑事
しゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
「最悪だ」
隣の部屋で聞こえてくるシャワーの音を聞きながら俺は呪詛を漏らす。
ここは月面都市の隅にある名前もよく知らないラブホテル。
月面都市群は厳密な都市計画によって建てられている。月の資源は貴重であり、月面都市に余分はなく大切な資源をラブホテルなんかに割く余剰はないはず――なのだが。月面開発の下火により商業区から次々と企業が撤退した結果、空きビル・空きテナントに次々と性風俗店が入り込んであっという間に性風俗区画が出来たのである。
「はぁ……」
今はラブホテルの成り立ちに想いをはせている場合じゃない。
俺はこれでも刑事。あんまりこんな所に出入りしてるのもよろしくない。表向きは。
だが、それ以上にやっかいなのは――。
しゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ
隣の部屋でシャワーを浴びている少女だった。
月面エルフと地球刑事
見覚えがあると思って月警察のデータベースを洗ったら先日の殺人事件の遺族の一人だった。
――数日前に姿を消したと聞いていたが、まさかマフィアの連中を虐殺するとは。
事件の重要参考人。
俺は殺人現場にも出くわしたし、当たり前のことだが逮捕する義務がある。
しかし――。
「あ、そろそろ何か食事頼んでおいてね」
「わんっ」
シャワールームから聞こえてきた声に反射的に返事をする。
わんっ、と叫んでから自己嫌悪。
――俺は何をやっているんだ。
死んだ目で手持ちのスマートデバイスを使って適当な食事を注文する。
「……あんな殺人現場の後によく飯とか食えるな」
俺が新人刑事だった頃は《現場》の後に飯なんて一切通らなかったものだ。
「なんか言った?」
「わうわうっ!!」
「……そう。静かに待っていてね」
必死の否定の鳴き声になんだか優しい声色が返ってきてまた悲しくなってくる。
――年下の、しかも月面人の小娘相手に何を怯えているのか。
我ながら馬鹿馬鹿しい限りだ。
月面人は低重力下で生まれているので特徴的な体型に成長する。多くは縦に細長いマネキンのような体格になりやすい。
昔のファンタジーに出てくるエルフのような細身で、あの小娘は百七十センチほどの俺よりも頭二つ高い二メートル超の身長をしている。胸も平坦だった。顔は年相応に幼い。
まともに組み合えばあんなひょろひょろの月面エルフに地球育ちの俺が負ける訳はないのだが、心が完全に負けている。
いや、俺の心が屈服していることなど些細なことだ。
一番の問題は――。
ため息をつこうとした時、ちょうど壁にあるランプが点滅したかと思うと音もなく壁から食事の配膳された板が伸びてきてテーブルを形成。それと同時に床から椅子が二つ出現し、簡易の飲食スペースが用意される。
――ラブホだと雰囲気を壊さないために無音で出てくるんだよな。
俺の研修の時に泊まったホテルや今の独身寮だとテーブルが壁から出現する時にじゃじゃーんと賑やかな音楽が自動で流れるようになっている。鬱陶しいので設定を変えたいのだが、どこで変えれば分からないまま放置しているので今も俺の寮では日替わりで知らない賑やかな音楽が流れてくる。しかも両隣の部屋からも聞こえてくる。独身寮にそんな機能をつけたヤツはみんな死ねばいい。
「ちゃんと頼んでくれてたのね。食事。偉いわ」
背後から少女の声。
「……わん」
何か気の利いたことを言おうとして、何も思い浮かばず結局消え入るような声で鳴き真似をした。バスローブ姿の月面エルフ小娘は何がおかしいのか大げさに吹き出す。
「便利な返事ね、それ」
「うぅぅ……わん」
顔をしかめ、唸り声と共に睨んだ。
「あ、抗議の鳴き声だ」
「…………」
嬉しそうに笑う月面エルフ小娘に俺は何も言わずに顎を振り、壁から突き出てるテーブルへ誘った。
俺は手前の席の椅子を引いて月面エルフ小娘の座る場所を用意してからその対面に座る。
月面エルフ小娘はやや目を瞬かせた後、にやけながら俺の対面に座った。
――やはりでかいな。胸は平坦だが。
二メートルを超える月面人と同じテーブルを囲むのはなかなかの圧迫感がある。しかも顔だけは十五歳の少女の童顔なのでやたら違和感がすごい。
「あ、このピザ好き」
月面エルフ小娘が何気なくピザに伸ばした手を俺は無意識にはたいた。
「こらっ、食べる前にお祈りしなさい、てお兄ちゃんいつも言ってるだろ」
そう言って俺は神に祈り、目を開けてからはっとする。信じられないものを見たような目で月面エルフ小娘がこちらを見ていた。
「……今のは忘れてくれ」
「お兄ちゃん?」
「あー違う違う。全然違う。俺はお兄ちゃんじゃありません。犬です。全然しつけのなってない国家権力の犬です。忘れて忘れて。忘れてくださいお願いします。わんっ、わんっわんっ」
顔を真っ赤にして早口でまくし立てる俺に対し、月面エルフ小娘は新しいオモチャを見つめた子供のようににんまりとやたら愉しげな笑みを浮かべてこちらを見下ろしてくる。
「ごめーんねー、おにーっ、ちゃん。お祈り忘れちゃってたぁ」
小馬鹿にした演技がやたらかわいくてめちゃくちゃ腹が立った。
――ああもう、最悪だ。
月面エルフ小娘は形ばかりのお祈りの真似をした後、ピザの一切れをぱくりと一口で食べきる。やはり身体がでかい。
あんな殺人現場の後なのに彼女はモリモリとピザを食べていく。低重力下で育った月面人<ルナリアン>は食が細いはずなのだが、あるいは――。
――親の仇を殺してやっと数日ぶりの飯が喉を通ったのか。
真相は分からない。ただ、俺はそれを見つめているしか出来ない。
「……たく、空きっ腹でそんなに詰め込んだらお腹壊すぞ。ゆっくり、よく噛んで食べなさい」
食事に手をつけずに見つめていると彼女と目が合った。
「……妹が居るの?」
「……………………わんっ」
月面エルフは微笑む。
「いるんだぁ」
俺は目をつむって天を仰いだ。
一番の問題は――。
――俺がこの月面エルフ小娘に妹をダブらせていることだ。
おかげでもう警察に突き出す選択肢が俺の中で消え失せている。
――俺も懲りないな。
そもそも月警察に研修と称してトバされたのも犯罪少女を見逃したのが原因だというのに。
「いいね、それ。外では兄妹ってことで偽装しようか」
「よしてくれ。俺の妹はお前と違って巨乳だ。歩いたら床がどすどすどすっと響くくらいには発育がいい」
――足音が響くことを伝えたら妹はマジ怒りするのでツッコむのは我が家ではタブーだが。
「じゃ、親戚のお兄ちゃんだ」
「……………………………………わんっ」
「はい、決まりー」
今のはイエスの鳴き声と判定されたらしい。
本当に便利な鳴き声だ。判断をすべて他人にゆだねられてしまう。
――使いすぎると本当に馬鹿になってしまうな。
もう既に馬鹿になってしまっている可能性には目をつむり、自戒する。
なんとなく、腹を割って話すならここだ、と思った。
「自首はしないのか?」
「え? 十五歳の小娘にマフィアを全殺しとか出来るわけないでしょ」
月面エルフ小娘はけろりとした顔で言う。まるで他人事だ。
――いや、もう彼女の中では終わったことなのかもしれない。
「なら、元の生活に戻るのか?」
「んー、あそこにあたしの場所はないかな」
「ホテルは明日の十時までにチェックアウトしないといけない。その後は――」
「おにーちゃんの家に引っ越す」
シャワーの間に考えていたのか即答してくる。
「……市民IDは? これがないと月面都市で何も出来なくなるぞ」
「そのままでいいかな。
おにーちゃんは家出娘を保護。帰りたくない、て泣き叫ぶかわいそうな悲劇の少女を引き取ることにした」
「悲劇の少女は刑事を犬にしない」
「反論は求めてないよ、ただ従ってもらうだけ」
「わん」
勘違いをしていた。これは提案などではなく、すべてご主人様によるご命令だった。
食事をしながらも月面エルフ小娘の片手は常に銃を握ったままだ。
「銃を片手に食事はお兄ちゃん感心しないな」
「不良娘でごめんね。でも、ご主人さまだから仕方ないね」
統計的に見て普段銃を撃たない大人よりもVRゲームで銃を撃ち慣れてる子供の方が射撃が巧いと言われている。
その統計が本当かどうかを確かめる気は起きなかった。
「学校は?」
「必要なら通信学校に籍(アカウント)だけ造っとけばいいでしょ」
俺は黙り込み、しばしば考える。
「――キミの罪はどうなる?」
「お、刑事っぽい台詞だね。おにーちゃん。
あたしがやらなきゃ、あいつらの罪はどうなっていたの?」
諭すようなことを言ったはずが試すように訊ねられてしまう。
「いずれ、神の裁きが下っていたさ。そして、それはそのうちキミにも来る」
「月に神様なんて居ないでしょ」
あまりにも辛辣な言葉に敬虔な俺は呆然とする。
「おにーちゃんがどこの神様を信じてるか知らないけど、さ。神様って地球に居るものでしょ」
「キミは無神論者なのか。珍しいな」
人類が宇宙に進出したことによって無神論者が増えるかと思われていたがむしろ逆だった。過酷な宇宙で人類が生き抜くためにはより強い心の拠り所として宗教の役割がより強くなっている。
おかげで月面人のほとんどがなんらかの宗教に帰依しており、信仰心は地球よりも月の方が高いと言うのが通説なのだが――。
「どうだろ? 子供の頃には居たような気もしてたけど、いつの間にかあたしの心にはいなくなったね。どっかに遊びに行ったのかも」
――そうか。
朗らかに答える彼女とは対照的に俺の心が暗く淀むの自覚する。
――神を信じられないほどに追い込まれたと言うことなのだろう。
「帰ってくるさ、そのうち」
俺は天を振り仰いだ。
結論はとっくに出ている。彼女を放っておくことなど出来ない。
――ただ、俺の踏ん切りがつかないだけだ。
果たして何秒迷ったのか分からない。
それでも俺は一分以内には神の試練を受け入れる覚悟を決めた。
前へ向き直り、月面少女の顔を見上げる。
「二年だ」
それが俺たちの期限<リミット>。
「ふうん?」
「筋トレをしてくれ」
俺の言葉に彼女は目を輝かせた。支離滅裂な言葉だが通じたらしい。
「連れてってくれるの、地球に?」
「二年で俺は強制送還される。その時に、キミを放っておけない」
「チケットはとれるの?」
「俺が後見人になったらなんとか出来るだろ。意地でも権利を勝ち取るさ。それよりも――」
俺は二メートルを超える月面少女の顔を見上げる。
「キミが地球の重力耐えられる肉体を手に入れられるかだ」
「なんとかするよ、それくらい」
輝くような彼女の笑顔に思わず黙り込む。
月の低重力下で薄く縦に伸びきったルナリアンの肉体が過酷な地球の重力に適応できるだけの筋肉を手に入れるのはかなり厳しい。
地球に密港し、そのまま自重に耐えきれず窒息死したルナリアンの死体を何度か見たこともある。
果たして彼女は――。
俺は頭を振り、脳裏の悪いイメージを打ち払う。
「二年後、どうにか出来てなかったら置いてくからな」
俺の警告などまるで意に介さずに月面エルフ。
「よし、決まり。行こう。地球に」
力強い言葉に俺はひとまず頷いた。
そして、祈る。
地球におわす神が彼女の罪を赦してくれることを。
「アニート・アウタランズ。それがキミの新しい兄の名だ。よろしく」
――過酷な旅になる。
どうしても険しい顔になりながら、俺は右手を上へさしのべた。
対する彼女はこれ以上ないにこやかな顔で俺を見下ろし、手を握り返す。
「ヨヱイラ・インタネルト。これが新しいご主人様の名前だよ、おにーちゃん」
「わんっ」
「お、それは《言ってくれるね》の鳴き声だね」
かくて俺たちの奇妙な主従妹兄関係が始まった。
その先に待ち受ける結末は、ただ神だけが知っている。
つづく
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