ヘリオスの光条

綾乃

事の顛末

-1




 まったく出鱈目な速度で逃げている。


 フードの中に俺を放り込んだままスタートダッシュを切った青年は、ぐんぐんスピードを上げて、それはもう特急列車さえ追い越すような勢いになって走り続けた。

 石造りの街並みが後方へすっ飛んで行く。道幅の狭い裏通りは、早朝のため人気の少ないことだけが救いだった。背後に迫る魔物は見境なく人を襲うから、注意が俺達だけに向いている今のうちに対処をしたかったのだ。

 俺は不安定な足場で何とか伸び上がり、奴の耳を引っ張って怒鳴る。


「電器屋ァ!」

「何!」青年も前を向いたまま叫び返した。「ていうか電器屋じゃないって!」

「何でもいい。おい、なあお前、何か策はあるのか!」

「策っ?」

 短く聞いたきり、息を乱して黙ってしまう。休み無く走り続ける彼にこれ以上負担は掛けられず、汗ばんだ襟にしがみついた俺はともかく後ろを振り返った。


 魔物と目が合う。

 カバと猪の間の子といった風体の巨大な四つ足の獣だ。獰猛に開いた口からは唾液が滴り、四つある目は全て別の方向を向いている。それが、俺が振り向いた途端一斉に俺を見た。

「気色悪ぃ」

 理性のない目のくせに、隙も死角も見つけられそうにない。それどころか本能に障る恐ろしさでまともに向き合ってさえいられなかった。

 眼球一つ一つの大きさが今の俺の頭ほどはあって、そのデカすぎる蹄でプチンと蝿みたいに潰される自分を想像する。デカすぎる──否、今の俺が小さいのだ。

 頭の上で揺れる青年の長い髪の先を鬱陶しく払い除けながら、俺は憤った。

「せめて体がこうでなきゃ……」

 ああいった手合いを相手にするのが仕事なのだ、普段ならばこれほど追い詰められる前に対処できていたはずで、こうやって見ず知らずの若者に雑に運ばれることもなかったのである。

 失態だ、最悪だ、くそ。

 顔にバサッとかかって暴れる奴の髪をまた蹴飛ばして俺は歯噛みする。仕事道具は俺と同じ縮尺で手元にあるが、しかしどうやってアレの隙を突くか。


 と、思案する俺のすぐそばで青年が呟いた。

「工事中」

「何だって!?」

この先通行止めunder construction! ここでケリをつける!」

 言うなり減速無しで急ブレーキ、踊るようなステップで奴は向きを反転させる。遠心力に投げ飛ばされそうになりながら俺はその肩によじ登った。


 正面、砂埃を撒き散らして魔物が迫ってくる。両脇の建物の窓から不安そうな住民がこちらを見下ろしている。


「窓から離れてね!」

 ずれた帽子を脱ぎながら青年が笑顔で彼らへ告げた。人のことを心配している場合かと俺は耳を引っ張る。

「いたた」

「電器屋、アレの動きを止められるか。俺の手を使うにはカメラの前で三十秒じっとさせなきゃならん」

「ぼくは電器屋じゃない」

「できるか、できないか!」

「殺しちゃ駄目なんだっけ」

 できないという可能性を全く考えない声で言う。

「そうだな。アイツに呪いを受けた被害者がいるかもしれん。殺しちまったら呪いを解くこともできなくなるから」

 俺は首から掛けたカメラを支えた。俺と一緒に縮んだから今はミニチュアのようだが、機能はするはずである。これで魔物のば、人的被害も環境被害もなかったことになるのだ。


 青年は肩の上の俺を無造作に掴んで路傍のゴミ箱へ避難させた。ひどい臭いがして、足を滑らせたら中に落ちそうだ。青年はさらに反対の手に持った自分のキャスケット帽を傍の街路樹へ被せるように置く。俺もそっちがよかったんだが。


「なあ」不満を言っている暇はないので、俺は短く呼び止める。土煙がもうすぐそこまで迫っている。「それでもどうしようもないときは、殺せ。お前が犠牲になってまで誰かを助ける必要はないんだ」

 青年はきょとんと俺を見下ろし、緊張感のない顔でにっこり笑った。

「優しいんだねえ、写真家さん」

 魔物がたてる風に彼の長い髪が大きく翻る。朝の光に白く透けて、そして次の瞬間には、消えた。


 石畳の地面すれすれにまで長身を折り畳んだ彼は、ごく低いところから狙いを定め、狩りをする獣のそれのように音もなく跳ね上がった。獲物を目の前にした魔物がギャアギャアと吠える。唾液をまき散らしながら後ろ足で立つ。その足下に、全身のバネを使った奴の躯体が急来した。

 目にもとまらぬ早さだ。俺は阿呆のように口を開けて、奴のほそっこい拳がいくつも魔物の腹にめり込むのを見ていた。一度二度、三度。落ちてきた前足の下敷きになる前に脇へ逃れ、足をしならせて横腹を蹴り上げる。折れる、と思った。折れなかった。汚い色の毛皮に足がぶち当たって、どん、と冗談のような音が鳴る。


 青年はやはり踊るように魔物をいなし、まるで涼しい顔で攻撃を与え続けた。カバとも猪ともつかない魔物はそのたびに吠え、悲鳴じみた鳴き声をあげてよろめく。バランスを崩したところを、彼はほとんど体当たりする勢いで叩き、そしてとうとう昏倒させた。


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