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住宅のあった長屋を改装してオープンしたのだろうまろう堂は、ここが観光地であることを忘れてしまいそうになるほど閑静な場所にある。この通りで店を開いているのはまろう堂ぐらいのものだ。
沙代子がまろう堂を見つけたのは、幸運であったとしか言えない。
立て看板がなければ、カフェだということを見落としてしまう店がまえの上、その立て看板さえも、気づいた人だけ来店すればいいと思っているような控えめなもの。
店主からハーブ園を経営していると聞いて、そちらが本業なのだろうと、妙に納得してしまった。ひとりで経営していると言っていたし、あまり騒ぎになってほしくないカフェなのだろう。
それは、ひとりでゆったりと過ごせる環境を欲していた沙代子にとって好都合だった。いい隠れ家を見つけた。また来よう。父の本棚のことはまたそのときに聞けばいい。
沙代子はメインストリートに背を向けて歩き出す。
駅からこちらへ向かってくる観光客らしき若い女性たちとすれ違った。まろう堂に気づかず通り過ぎていく彼女たちを見送るように眺めたあと、脇道を進んだ。
細い小道に入るとひと気がなくなり、生活感が漂い始める。軒先に咲くペチュニア、塀の奥に見える物干し竿、収集を待つゴミ袋、そのどれもがなじみのある風景なのに、まだ沙代子は慣れないでいる。
ここへ来て、まだ数日。なじめないのは当然だ。小学時代まで過ごしたこの町は、大人になった沙代子を客人のように扱っている。ずっとこの町で暮らしていたら、違う人生があったんじゃないかと、誰に向けるでもないむなしさが込み上げてくる。
積み上げてきた選択肢が人生の結果だけれど、その結果さえもまだ選択の途中なのだ。だけど、今さらやり直すことができるだろうか。
恋人も父もいなくなってしまった。両手いっぱいに抱えていたはずの夢が泡となり、方位磁石を無くしたまま森に迷い込んで、暗い場所から抜け出せない気分だった。
小道のつき当たりに、洋風の二階建て住宅が現れる。まるで西洋のお城のような、メルヘンチックな家だ。
古き良き時代を大切にする城下町には浮いている丸窓のある洋館は、かわいらしいものが大好きな母の趣味だった。『絵本から飛び出してきたみたいでしょ』と満足していた彼女も、のちにこの家を立ち去るとは思っていなかっただろう。
小学6年生だった沙代子は、母に連れられ、父を残してこの家を出た。あれから15年が経ち、ふたたび戻ってくる日が来るなんて、あのときは想像もしていなかった。
レンガを埋め込んだアーチを抜けて、木製扉に鍵を差し込む。
この家を出るとき、『いつ来てもいいよ』と父が持たせてくれたおまもりの中に入っていた鍵とぴたりと合い、扉は簡単に開く。
リビングに入り、鍵を猫脚のテーブルの上に置く。
キャンドル型のシャンデリアに、クラシックなアンティーク家具。少し落ち着かないと子ども心に感じていた豪奢な調度品は全部、母が買いそろえたもののままだ。
時が止まっているみたいに何も変わりがないリビングは、大きくなった沙代子をよそよそしく受け入れている。
変わりがないように見えて、変わっているのだ。それは沙代子も同じ。今の沙代子はもう、パートタイムから帰る母をそわそわしながら楽しみに待つ、あの頃の純粋な沙代子ではない。
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