21「あいのおと」

 幸せの形は、いくつもあるそうだ。


 私には、そのどれもがまったく想像できないものだった。食欲・性欲・睡眠欲、生き物の根っこにあるそんな欲求さえ、きちんと満たされることは少なかった。ただ眠りの中に逃げて、自分が世界からいなくなっている間だけが幸せと呼べる唯一の時間だったように思う。二度寝ができるほど不真面目ではなかったことも、私の幸福を妨げていたのかもしれない。


 食欲は幸せのひとつだったように思えて、思ったよりそうでもなかったかもしれない、と首をかしげる。味というものがよくわからず、食べ続けても満たされることがなく、量を摂取して飽きることだけを繰り返していた。飽食の時代といえば豊かさの象徴のはずだというのに、ただ肥え太る芋虫のような食事をしていた。芋虫は幸福だろうと思えたこともあったが、私は無為に続けることが苦手だった。何より、太りたくなかった。


 性欲で満たされたことは、ほとんどない。優しく抱きしめられる空想が偽物に思えて、自分を慰めることがあまりにも虚しかった。電車の中で「彼氏のより、自分の指だよね」と言っている大学生の話を盗み聞きして、空想はさらに萎縮した。大きな胸や恵まれた容姿も、現実をよくするためにはちっとも役に立たなかった。空想を現実に変えてくれる誰かは、ついぞ現れなかった――


 そう、思っていた。


 体の中に響く愛の音が、ずっと脳まで突き抜けている。自分が思っていたよりもずっと淫らだった自分の体が、あんなにも愛された。そのときの感動が、今もこうして続いている。これもみな、あのひとの力だった。


 あなたはとても魅力的だから、あなたの魅力だけを見てしまうことも仕方がない。そして、奪うことだけで幸せになろうとする人も大勢いる。消費するだけで幸せになろうとする人もいる……知れば豊かになると思えないのなら、こちらに来るといい。長い長い幸福を、ともに過ごすことができるだろう。


 あのひとの言葉は、幾度も達した交わりの音とともに響き続けている。幾度も幾度も、耳から離れずに聞こえ続けていた。ほかの何かを考えようとしても、鼓動のように聞こえ続ける声が道を塞いでいる。何も考えられない幸福は、何よりも私が欲しかったものだった。何かを考えるたびに余計な方向へ走って、脇道に逸れたあげくに事故を起こして血みどろになるような、そんなことばかりだった。愛される快楽がすべてを塞いで、ただ愛の中に閉じ込めていた。


 夜道を歩きながら、私はあのひとに言われた通りの道を進んでいた。あのひとが必要としているのは、私が完璧にあのひとのものになることだ。そのために進む道筋は、あらかじめ聞いてある。それに、少し間違えてもあのひとがなんとかしてくれる。それが、私があのひとを信頼している理由だった。


 通るべき道筋はいくつかある。その中でも、確実に間違えてはいけないルートがあった。若者がたむろするコンビニの前と、空瀬駅前の広場だ。こうすることで、私はよりあのひとに近付くことができる。そして、こうしなければ愛され続けることができない。どちらを選ぶかは決まっている――選択肢など、最初から用意されていない。


 小さな音がいくつも連なる。ちらと横目で見た青年たちは奪う側にいるようで、何人も尾行してくるのが分かる。それは、前の私が何よりも恐れていた音だった。誰かと過ごす時間が尊いと思えたことは、一度もない。家族の足音さえ、私には恐怖の源にしかならない状態だった。あのひとがいなければ、私はずっとそのままだっただろう。


 いったん部屋に入って、少しだけ遠くに出る。上空に呼び出したウンディーネが水を降らせ、青年たちの悲鳴が聞こえた。とくに狙いもつけずに撃った魔法だ、何が起きたか知っているのは、当人たちだけに違いない。じわじわと湧き上がる暗い愉悦に微笑みながら、私はスキップするように駅前へと向かう。


 喜びは分け与えるためにある。奪い合いに勝利して得た喜びは、いつかなくなる。だから、たくさんの人の手で喜びを作り上げて、ねぎらいを分配しなくてはならない。あのひとはそう言って、私を部屋に招待してくれた。たくさんがいて、すべてが私の幸せを祝福してくれているのが分かった。白と黒が、視界いっぱいに満ち満ちていたからだ。


――もう一度、


 この幸せを、誰かに分けてあげたい。救われなかったすべての人が、愛されることを知って幸福になってほしい。今も胎内に響く、幾度達しても鳴りやまないこの喝采が、全世界に響き渡ってくれたなら、どれほど幸せだろう。ライブ会場の一体感、スタンディングオベーションの感涙、そんなものさえ色あせるに違いない。


――もう一度だけでも、抱いて


 響く音が、思考を遠ざける。ほんのわずかな違和感を覚えながら、私はロータリーの前でくるりと一回転した。生きてきた時間のいつよりも上機嫌な私は、今までのすべてが塗り替わったように笑えていた。


――抱いて。愛してるって

――愛してるって言ってほしい。


 どぶ川の近くにある高架下に、部屋への入り口がある。そう聞いていた私は、前からやってくる人をやり過ごして、壁に手を触れた。音もなく開いた黒い穴をくぐって、私はたくさんがいる部屋の片隅、自分に与えられた椅子に腰かけた。


――信じさせてほしいのに、どうして抱いてくれないの。


 何も動かない真っ暗な部屋で、私は愛に溺れていた。ずん、ずんと胎から響く音は、やがて私の思考をかき消していく。不安も何もない真っ暗い空間に、快楽の音だけが聞こえ続けていた。


――何も、考えられない。頭の中が真っ白くなって。


 やがて、何を考えようとしていたのかわからなくなった。

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