#3 モルジアナは夢想する


 暗い世界の奥底で、夢を見ていた。


 中学の頃のセーラー服。みちるが着た最後の、制服と名の付く服。緩めに結んでいた赤いスカーフをぎりぎり締め上げられて、気道を潰す。痛い、怖いわ、助けて、兄さん。


 ちかちかしていた視界が霞みかかった頃、気道は急に解放されて、勢いで吸い込んだ空気が肺に溢れた。力が入らなくて崩れ落ちて、背中を強かぶつけたものだから、せっかく取り込んだ空気もびっくりしたように飛び出していく。


 ああ、兄さん、兄さん、助けてくれたのね。力なく床に倒れ込んだまま視線のぶつかる、ヘーゼルの瞳。その瞳孔は、見たことないくらいに、開い、て、



「みちる!」



 ひゅう、と喉が鳴った。喉につかえていた空気が流れ始める。夢から覚めたみちるの世界に、色はない。


「みちる、大丈夫? 酷くうなされていたけれど」

「ああ、兄さん……」


 穏やかな琉生の声に、みちるは細く息を吐き出した。


 夢にしか映像のないみちるにとって、悪夢は凶悪な障害だ。普段は穏やかで幸せな風景ばかりなのに、時折、忘れた頃に、それはみちるを弄ぶ。


「暗いのは怖いわ……」


 ほとんど囁くように、みちるは零した。色のないいつもの世界ならまだ良い。けれどみちるにとって、本来色で溢れているはずの夢の世界で、暗いところに閉じこめられるのは、恐怖だった。


「明かりをつけようか、目が覚めてしまうかな」


 琉生は気やすめだけど、と口惜しげに言う。優しい兄だ。みちると琉生は二人きり。みちるの苦しみを、琉生は目一杯両手をひろげて汲み取ろうとしてくれる。その存在にほっとする。


「大丈夫……ねえ、兄さん」

「うん」

「眠くなるまで、幸せな思い出を教えて。なるだけわたしの知らない、そう、学校での話とか」


 みちるのお願いに、琉生は少しだけ唸った。琉生は明日も大学なのに、無理を言ったかと思ったが、すぐに思い直す。みちると琉生は以心伝心だ、琉生は多分、エピソードを選びながら唸ったのだと、気づいた頃、わずかに吐息が聞こえた。


「今度ね、サークルのメンバーで飲み会をするんだ」

「そうなの」

「だから、みちるのご飯は少し遅くなってしまうけれど……」

「いやだ、そんなこと気にしないで楽しんできて。わたしだって一人でも、そうね、サンドイッチくらいなら作れるわ」

「うん、そうだね。けれど世話を焼かせてよ。琉生とみちるは」

「二人きり、だから?」

「そう、二人きりだから」


 それは合い言葉だ。二人がいつまでも一緒にいるための。みちるは安堵感に、ふわりと意識のひもを緩めた。


「兄さん」

「なに、みちる」

「……おやすみなさい」

「うん、おやすみ。今度はきっと良い夢だよ」


 みちると琉生は以心伝心だ、きっと琉生の言葉は、真実になる。ふわふわと浮遊した意識を、みちるはゆるりと手放した。


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