第5話 誰もいない場所


 宇宙ステーション内には、そこで働く従業員たちの居住区がある。一時的なものではなく、一つの都市機能がそのまま揃えられているのだ。学校や公園、病院や運動場が完備されており、居住区には宇宙ステーションで生まれ育った子供たちが元気に駆ける。

 一時的な渡航者であるエルたちには本来立ち入りが許可されないのだが、今は潜伏の身のため、長く宿泊エリアに留まることは危険だと判断し、現在は居住区に侵入し公園にて情報収集に当たっている。


「次に行くべきは惑星スラウト、探索者の星ね。腕っぷしのある異能者の助けを借りれば、追手を退けられるかも」

「対組織の専門家がいれば、逃亡・亡命のコンサルタントを雇える。システムの追跡でも簡単に手を出せない星が見つかるかもな」


 セーナのパソコンは旧式の型落ちであるものの、搭載されているCPUがプラクトによって性能を底上げされた、システムが開発した強化PCである。並程度のセキュリティであれば、処理能力だけで突破することが可能な、市場に出回らない逸品。

 プラクトによる処理が必要となるため、使用時はセーナのプラクトを必要とする。自身の脳の処理能力も高めた影響で、セーナの目は一時的に発光している。充血に伴いプラクトが集中するため、眼球の集光機能が変質して光って見える、らしい。


「昨日から変わったわね、あなた」


 唐突に、セーナが切り出す。


「……何がだ」

「会話に積極的に応じるようになった。なのに……ちょっとだけ、暗い感じがする」

「知りたいなら、またプラクトで介入してみればいい」

「プライバシーの侵害は趣味じゃないの」


 既にエルは、自身のプラクトに強固な防御を張っている。前は不意打ちだから入ることができたが、次は上手くいかない可能性が高い。


(白星の干渉力を拒絶するとか、普通は無理なんだけどね。これだけのプラクト制御能力……システムに目をつけられるわけだ)


 だが、セーナが気になった点は他にもある。


「私に入られるの、嫌じゃないの? プラクトは心の世界、悲しい記憶や辛い記憶もあるはず。普通は見られたくないようにするものよ」


 ブレイドとして選ばれたからには、エルとて常人ではない。

 人の極限に達した者___それは時に人の域を逸脱し得る。そして、強い排斥の対象となることが多い。

 家族を、友を、恋人を殺された者などありふれている。故郷を滅ぼされた者、癒えぬ傷を背負わされた者、過去の全てを奪われた者もいる。

 そんなものは、誰にだって見られたくないはずだ。

 セーナとて、見たいとは思わない。

 だがエルは……エルからは、過去を恐れるものを、全く感じない。


「別に……今の俺には、もう何もない。見られたくないものなんて、何もない」

「じゃあどうして、あなたはシステム壊滅を目指すの」


 僅かに、エルの重心が揺れた。

 

「悲しみも怒りもないなら、なぜシステムを滅ぼそうとするの」


 セーナは、近づきたかった。

 一体どれほどの悲しみ、あるいは怒りを抱えれば、システム___この宇宙を総括するが如き巨大な存在を破壊しようなどと考えるのか。

 どれだけ激甚な思いがあれば、この決意に達するのか。

 恐れはある。目の前にいる自分などいつでも殺せる存在に対する恐怖は、今も確かに存在する。

 それでも。

 僅かな時でも、彼とは宇宙を跨ぎ、旅をしたのだ。

 だから、理解することができると___そう、思ってしまったのだ。


「______別に」

「……え?」

「ない方がいいから、無くそうとする。当たり前のことだろう」


 まるで、窓に汚れがついたから拭こうとしたのだと、その程度の気軽さでエルは答えた。

 

「システムが救おうとするのは、『人類の進化と深化』に直結する、必要とされる人間だけだ。その他大勢に僅かな不幸を課し、選ばれた人間の成長に変換する。それは、人類の輪を乱す行為だ」

「……違う、そういうことを言ってるんじゃない」

「君とて、犠牲になることを強いられた被害者だろう。君がそれを求めていなかったとしても___少なくともシステムが壊滅すれば、君はもっと旅を続けられるはずだ」

「そんな話を、したいんじゃない……!」

「幸い、俺には十分な戦闘力がある。事を成す力があるなら、責務があるのは当然だ」

「あな、たは!」


 セーナはエルの肩を掴み、途轍も無い剣幕で見下ろした。

 彼女は本気で怒っている。無意識に白星ホワイトとしての力を行使し、エルに攻撃的は意思を飛ばすほどに。


「あなたは、死ぬのが怖くないの⁉︎」


 ずっと、疑問だった。

 エルは強い。セーナが知るどの異能者よりも、ブレイドよりも。

 システムの壊滅も、彼ならやり遂げることができる。そう言えるだけの強さを備えている。

 だが、戦うこととは悲惨なことだ。傷つき、失い、壊れていくということだ。

 人はそれらを恐れる。だからできるだけ戦おうとはしない。

 戦うほどに何かに駆られても、それでもなお戦いを恐れるからこそ、人類は平和を愛してやまないはずなのだ。

 エルからは、それが決定的に欠けていた。

 それは諦観ではない。失望でも、無気力でもない。

 ましてや、勇気に導かれているわけでもない。

 戦うために自信を鼓舞するものも、戦いに行くための悲痛な覚悟や思いもなく、大願のための手段として割り切るつもりも、役目に殉じようとする使命感もなかった。

 人が生きるために食らうことに、理由がないように。

 人が歩こうとすることに、理由がないように。

 人が子孫を残そうとすることに、理由がないように。

 

 エルには、戦おうとすることに、理由がない。

 ただ戦うべきだという、一本の衝動のみが、彼の中にある。


「戦ったら死ぬかもしれない、殺さないといけないかもしれない。あなたはそれが、怖くないの……?」

「…………あぁ」


 最初は、暖かい色だと思った。

 その、赤い双眸が、今は。

 宝石のように美しく___そして、人らしい濁りが一切存在しない、悍ましい純潔に見えた。



 * * * *



「…………人が掃けたな」

「______!」


 周囲に目を配り、僅かに聞こえていたはずの街の喧騒が消えていることに気づく。人気の少ない公園とはいえ、住宅エリアとは近い。ここまで人の気配がしないとなれば、恐らくは避難したか、あるいは___


「いや、人はいるな。百人近い」

「……? 全く気配がないけど」

「隠しているな。挨拶は無しか?」


 エルは初めから全てが見えているかのように、空中の一点を見つめている。

 挑発にも取れる声に応じて、それは姿を現した。

 まるで、首を吊っているかのように宙に浮いた、百近い人影。

 そしれそれを高みから見下ろす___二人の鎧姿。


「ブレイド……それも二人!」

「初めまして、ブレイド『エル』。私はブレイド『ディー』、アンヘル・ディーと申します」


 恭しく挨拶の仕草を取る、白と金の色の豪華な鎧の男。

 そしてその横には、女性の体型をしたもう一人のブレイド。紫と白の鎧を纏った、ブレイドの女か。

 ディーが続けて何かを話そうとするも、その隙間を与えずにエルが飛び出す。

 一瞬にして全身に鎧___ヴェイルスーツを纏い、衝撃波が発生するほどの速度で飛び出した。会話する敵ならば、それに脳のキャパシティを割いていることが命取りだ。

 一瞬、されど致命的。エルの拳がディーの眼前に迫り、

 途端に、突き出された右腕の肘から先が消失した。


「______っ⁉︎」

「腕が___!」


 空中で身を捻り素早くディーから離れたエル。

 まるで画像が切り取られたかのように、まっすぐな線で切り取られた右腕は、何事もなかったかのように今もエルの右半身を支えている。


「切られてない……幻覚?」

「不正解です、セーナ様。彼女……ブレイド『アイ』の能力は『透過』、物体を一時的にあらゆるものを透過する物質に変換できます」


 何が起きたのか一瞬で判断したエルは、標的をディーからアイに変更。目で追えないほどの速度で飛び上がり、攻撃を仕掛ける。

 そして、その全てがアイを透過した。アイに近づいた瞬間、光も、重力すらもエルを透過し、そしてエルの拳の全てがあらゆるものをすり抜ける。

 能力の仕組みを理解したエルとセーナは、すぐにそれがディーが説明したような甘いものでないことに気づく。

 対象を、一時的に非存在に変換する能力。

 確実に、エルの天敵たり得る存在であると。


「それに比べれば私の能力は簡単だ。糸を使って人を操ったり、物体を動かしたり……器用ですけど強くはないですね。私一人じゃエル、あなたには絶対に勝てない」


 後ろに引こうしたエルだが、今度は一時的に纏っていたヴェイルスーツそのものが透化する。身体能力を支えていた要を失ったことでバランスを崩し転倒した先にある地面がさらに透過。エルが奈落に落下したタイミングを見計らい、地面の透過を解いた。

 地面は一時的に透過しただけであり、解除すれば一分の隙もない地面に置き換わる。地中深くに、エルはヴェイルスーツの透過を解かれることなく生き埋めにされる。


「エル!!!」

「いっそのこと宇宙空間に生身で放り出せればいいんですがね。まぁあのエルです、簡単には死なないでしょう。さて」


 エルが一時的に無力化された事を確認したディーは、操る人の群れを地面に立たせる。皆、完全に生気を抜かれた顔をしていた。

 プラクトを制御する異能者であるセーナには、ディーから流れ込む膨大なプラクトが操られた人々を満たす様子が確認できた。おそらく身体能力が常人の数倍に強化されているだろう。


「選択肢がありますよ、セーナ様。大人しく着いてくるか、彼らに取り押さえられて連れて来られるか、どちらがいいですか?」

「面倒なことするのね。私を殺せばいいじゃない」

「生きていた方が都合がいいので」

「あっそ」


 何も答えることはせず、セーナは電気銃を取り出す。

 プラクトを込めて放つ、プラクト銃。高密度のエネルギーを放つものであるため、この銃撃は異能者の能力でも防げない。

 そして追加で、白星ホワイトとしての能力も込めている。

 放たれた光は真っ直ぐにディーに向かう。すぐさまアイによってディーの姿が透過されるが、銃閃はカーテンのようにかけられたアイの能力に衝突し、その能力を瞬く間に食い破る。


「ちっ、触れたプラクトを操作してアイの能力を掻き消したのか」

「……ディー」

「分かっている。お前はエルを足止めし続けろ。もうすぐ這い出てくるだろうさ」


 ディーノ声に応じて、地面が爆発音と共に吹き出した。

 地中十メートルに生身で埋められたにも関わらず、その命脈は絶たれていない。

 こちらを見上げるモノクロ色の怪物は、埋められた時に吸収した地中の圧力をプラクトに変換し、光線として放つ。

 

「こちらも化け物だな。やはりヴェイルスーツに対しては透過の効きが弱いわけだ」


 光線は透過されたことで掻き消えるも、その合間にセーナが放った銃撃によってアイの防御が解かれ、継続して放たれていたエルの光線の一部が僅かにアイの顔の鎧を掠める。


「……ディー、目……開けていい?」

「好きにしろ」


 アイが、仮面を外した。晒した素顔は、恐らくセーナよりも幼いと思われる少女のものだった。瞳が紫色に輝き、宿した異能がより一層凶悪なものとなる。

 視界に捉えた対象を透過させる異能は故、ヴェイルスーツによって視界を広げることで能力の強化を図ったものの、それに比例し出力は低下する。

 視界を肉眼に絞ることで、能力の出力を強化。再びエルのヴェイルスーツを透過させ接近、ブレイドとしての身体能力で叩き潰さんと、エルに接近戦を仕掛けていった。

 ディーも動き出し、操る人の群れが一斉にセーナに襲いかかる。

 常人では考えらない、異能者に近い身体能力で襲いかかる者たちを、セーナは体術のみで掻い潜り、その手で頭に触れる。

 

除去パージ!」


 頭部に送り込まれたディーのプラクトを、白星としての権限で消去。操られた状態を解除する。

 これを続け、殺すことなく彼らを支配から解き放つことができれば、エルがアイに勝つまでの時間を稼ぐことができる。

 不利な相手であっても、エルの戦闘力であれば不利を覆すことが可能だとセーナは判断し、時間稼ぎに徹する。

 支配を解除し気絶した者を壁にし、密集したことで身体能力の高さを活かせていない者たちの頭に次々と触れて能力を解除していく。


「ほら、引っかかった」


 それがブレイドの力を見誤ったことだと気づいたのは、激痛が体を走り抜けた後だった。

 除去を発動するために伸ばした左手が、一人でに捻れ、血を吹き出して折れ曲がる。


「___っぐ⁉︎」

「この程度であなたを止められるとは思ってません。あなたのことを見くびってはいませんよ」


 気づいた時には、ディーは背後に周りこんでいた。激痛が走り心にダメージを負う前に行動するべく、残された右手でディーに触れようと手を伸ばす。

 無論、ブレイドの反応速度で反応できない速度ではない。見えざる糸に阻まれた右手はさらに細かな糸によって切り刻まれ、肌の先にあった肉すら曝け出した。


「あ……あぁぁぁっっ……!」

「脳内をプラクトで制御して、痛覚を軽減しているんですね。器用なことをする」


 なおも抵抗しようとしたセーナの体を、まだ支配されたままの者たちが体重任せに押さえつける。両手を動かせず激痛に耐えるだけのセーナに、抵抗はできない。

 

「まだ若いでしょうに、涙も流さないんですね。まだ希望が残っているからですか?」

「あなたたちじゃ、エルには勝てない……!」

「相性の悪い相手に粘れるほど、器用な能力じゃないでしょう」


 すぐ横では、二人のブレイドによる天地を引き裂かんばかりの絶戦が繰り広げられている。

 ブレイドとしての基礎スペックに身を委ね超高速の移動を続けるエル。アイの能力が視界に収めることを条件とする以上、高速で動き続け能力発動前に視界から遠ざかれば、透過の影響を受けることもない。

 問題なのは、アイが基礎スペックが高く、エルの移動速度に反応できていることだ。裏をかくつもりで移動しても、アイの動体視力はすぐに追いつく。

 そして、視界に一瞬でも収めればアイの勝ちだ。晒した双眸にプラクトが集中し、紫の光が放たれる。

 威力を持った光線などではない。視界の先にあるもの全てを強制的に透過させる光は、視界の先にあった地面や構造物を悉く透過させていく。無論、一度透過した物体は、一瞬ながらも重力の影響も受けず、周囲の物体を透過させる。

 つまり光が通った後には歪み壊れた、破壊の跡が残る。

 戦場となった宇宙ステーション居住エリアは、アイの視線の数だけ歪み、破壊され尽くしていた。高く聳えた高層住宅は中階層部分をアイの視線が通ったことで擬似的に切断され、崩れ落ちていった。

 大地の感触を再現した擬似的な地面はアイの視線が通るたびに新たな断層を生み出し、重力発生機構による影響を受けて次第に崩れ落ちていく。地盤が沈下していくに伴い、居住エリア全体がひび割れ、破壊されていった。

 それでもなお、エルの速度は視線の動きを上回る。


「いい加減……諦めてよ……!」

「お前も、哀れだな。アイリュース・レル」


 アイの放つ紫の視線の背後に、エルの紫色が輝きを放つ。

 途端に、居住エリア全体の崩壊が僅かに止まった。

 力の吸収。宇宙ステーション全体を支えていた重力発生機構から発生した重力の一部が、エルのプラクトに転換された。

 何も落ちない、僅かな静寂の後。力は、放たれる。

 だがコンマ数秒の差で、アイの視線がエルを捉えた。


「"何もない場所エンドパレント"!!!」


 エルを中心とした球体状の空間が、アイの透過の力を受けて無の存在と化す。

 その瞬間、その空間だけはあらゆる光が、力が、空気が通り抜ける。

 宇宙空間よりも虚無に近い、何もない空間。

 ヴェイルスーツの機能すら透過させられ、エルの肉体はあらゆる物質的なつながりを断絶させられる。

 呼吸もできず、あらゆる力学が否定されるため肉体の一切の機能が停止する。意識を保つこともできず、生きることも死ぬこともできない場所。

 真なる虚空にて、孤独に殺す。

 破壊どころか観測すらできない半径五メートルの虚無が___唐突に、光と共に破れる。


「…………嘘」


 透過の力は全力解放している。だが、透過しきれないほどの存在が、内側から溢れ出していた。

 紫の光が。

 暗澹を、破る。


「力づくで、透過を破ったの……?」


 漏れ出た光は、止まらない。

 重力から変換された膨大なプラクトはその総量故に膨張を続け、巨大な熱球を作り出す。抗うことのできないエネルギーの奔流が、アイを包んだ。


「化け物め……! プラクトの出力だけで能力を破るとはな……!」


 遠目からそれを眺めていたディーは敗北を悟り、それでもなお役目を果たすべく、糸で肉体の支配を奪ったセーナを連れて逃走を図る。セーナが支配を解除した者たちの再支配は完了しており、いざとなれば彼らを足止め役につかってなんとか逃げるしかない。


 エルが降り立つ。

 目の前には、ヴェイルスーツのほとんどを破壊され戦闘能力を喪失したアイが横たわっていた。


「…………本当に、強い」

「何か言い残したことはあるか」


 紫色の視線が、僅かにディーに向けられる。

 悪辣で、非道で、それでいて妙に人間臭い。

 自分を拾ってくれた人。自分をブレイドにしてくれた人。


「ディーに……言ってあげて。似合わないよって」

「分かった」


 一瞬にして、エルの右手がアイの首の骨を折り潰した。

 ゴキリという、命を絶つ音。

 紫色の瞳を晒したまま、少女は逝った。


「近づくな。こいつらを殺すぞ」


 ディーを始末しようと近づくエルを牽制すべく、脅しも兼ねてまずは一人。

 糸によって首が捩れ、血を吹き出して誰かが死んだ。

 巻き込まれただけの、誰かが。


「やめて……っ!」

「次は五人殺す。さらに一歩踏み出したら十人殺す。五歩目で、この女を殺す」


 それでも、エルは止まらなかった。

 歩行速度を一切落とさないまま、ディーに近づく。

 怯える表情を隠せなくなったディーが、二十人の首を捩じ切った。吹き出る血が、モノクロ色のヴェイルスーツを鮮血に染めていく。

 臓物と死肉を浴びながら___それでもなぜか、エルは止まらなかった。


「バカな……止まれ! 止まれと言っているんだ!」


 我慢できなくなったディーは、残された者たちを操り、一斉にエルに飛び掛からせた。身体能力が強化されている分、無理やりしがみつけば動きを封じるくらいはできる。無理矢理押しのけようものなら、確実に殺さなければ無理だ。

 大勢の人間たちによる、力任せのタックル、そして羽交い締めを受けても、エルの体は微動だにしない。

 仮面に隠された表情もまた、全く動いていなかった。


 人が一人、吹き飛ぶ。

 トン単位の膂力で殴り飛ばされた人間は、全身を砕かれ血を吹き出しながら、数十メートル先に落下し押し潰れた。

 そして、また一人。今度は投げ飛ばされ、頭を地面に打ちつけて死んだ。

 その次も、またその次も。

 腕、足が千切れた死体が、跡形もなくなった者の首が、舞い散った。

 

「____________」


 セーナは、その光景を目に焼き付けさせられた。

 もう、モノクロ色は見えない。

 鮮血の山から、エルが再び歩み出す。

 足止め役として使われた、数十名を全て殺し。

 その死体を、足場としながら。


「……なぜだ」

「何がだ」

「お前は、殺人に対する強い嫌悪を抱く倫理観の人間だったはずだ。悪人すら、殺さずに生かしておくような、甘ったるい脆弱な人間だったはずだ。なぜ___こうも簡単に人質を殺す?」


 その言葉が揺さぶりだと、エルには最初から見え透いていた。

 後ろから近づく、一般人とは全く異なる気配を既に感じていたからだ。

 近づく者の折れた首を掴み、折れてもなお掴み掛かろうとする腕を骨ごと折り、背後に周り首を掴むことで再び動きを封じた。

 ___アイ。既に事切れたことは確認している。

 今も動いているのは、ディーが操る糸の力に他ならない。


「仲間の死体すら囮に使うお前が、それを言うか」

「最後に、この女で試すとしようか」


 糸でぶら下げた、両腕を負傷したセーナ。

 痛みで意識を失ってもおかしくない傷にも関わらず、その青の視線はエルに向けられている。

 信じられないものを見ているかのように、エルを見続けている。

 何か言葉を紡ごうと口を動かしたが___それよりも早く、その胸に糸の針が刺さる。


「がっ……は……っ」

「今すぐに引き返し、この宇宙ステーションから去れ。さもなければこの女の心臓を引き裂く」


 システムが欲するのはセーナの命でないことは、ジェイルの例から既に知っている。ディーは恐らく、本気でセーナを殺すだろう。

 そうでなくとも、糸を刺し込まれた傷によって遠からずセーナは失血死する。

 エルに、迷う時間は与えられない。

 

 ___数秒だけ、エルは立ち止まったまま黙っていた。

 その赤い目を、ディーに向けたまま。


「……どうした、早く去れ」

「アイの最期の言葉だ」


 そして、前に一歩を踏み出した。

 右手に握ったアイの亡骸を、前に放り投げながら。


「似合わないぞ。ディー・エルセル」

「_________」


 投げられたアイの亡骸。その死に顔を見て、僅かにディーの意識が逸れた。

 アイが遮った影を利用して一瞬にして距離を詰め、セーナを縛る糸を操っていた右腕を切り落とし、セーナを抱える。

 右腕を抉られた激痛に表情を歪めることもせず、ディーは左腕で投げつけられたアイの亡骸を抱えた。

 もう二度と抱くことはできないと思っていた、冷たい抱擁。

 糸を亡骸から切り離し、ディーは独りごちる。


「…………最後まで、センスがなかったな」


 ディーが倒れる。 

 左手で、事切れたアイの目を閉じ、髪を撫でた。


「殺せ」


 エルはセーナが持っていたプラクト銃を拾い上げ、トリガーに指をかける。

 エネルギーの塊が、ディーの頭部を貫いた。


 破壊と惨劇の跡が、宇宙ステーションを漂う。

 エルによる重力吸収の影響か、重力発生機構がエラーを起こし、崩壊し果てた居住区域は瓦礫がふわふわと漂う宇宙空間と等しい場所と化す。映像によって再現された空は消え失せ、星空の闇と光が二人を照らした。


「OS、いるな。セーナを治療しろ」

『はーい、いるよ!』


 一体いつからいたのか、草むらから飛び出したOSがふわふわとセーナに近づき、球体のボディを開いた。センサーの類がセーナの傷口を調べ、薬剤を噴射するなどして着実に手当てを進めていく。

 だが、腕は骨や腱の大半が切断され、修復は難しい。恐らく現代の医療で、この傷は治せない。

 

「セーナ、悪いが動くな」

「…………?」

「君に、俺のヴェイルスーツの一部を移植する」


 ヴェイルスーツを構成するナノマシン___元は『ヴェイルセル』と呼ばれる古代生物の細胞が、セーナの傷口に侵食していく。

 ナノマシンはエルの意のままに蠢き、傷口を塞ぎ、欠けた筋と骨を形成していく。

 細胞レベルの大きさしか持たないナノマシンは血球の役割をも果たし、失血によって滞っていた血の巡りを回復させ、心肺機能を取り戻させる。

 痛みもなく傷を癒やし、元の細く美しい手が取り戻された。


 血と破壊に彩られた、誰もいない場所にて。

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