魚のことば

@mochiuiro

その立方体のなか閃めく濃紺のうずは俺に「死」を連想させる。


俺の部屋のデスクの上をひらり漂うおおきな丸い鰭を持つこの魚は、この前自殺した知人の「ねりね」から引き取ったベタだ。


「ねりね」とはTwitterでたまたま繋がった仲で、彼は以前より鬱を患っておりかなり死にたがっていた。そして俺のほうも元々厭世的な気質だったのに加え、仕事や女ともうまくいかず鬱々としていたため波長が合い、度々2人で飲んでいた。


「ねりね」は実家に住んでおり、彼の死を自殺の7日後に知った俺は、その3日後に以前飲んだ際に教えてもらったその住所を訪ね、彼が首を吊った2階の部屋へと「ねりね」の母に通してもらった。


カーテンで締め切られたヤニ臭が鼻をつくその部屋には、まだ「ねりね」の気配が残っていた。

部屋の端に積まれた付箋だらけの文庫、中央のテーブルにある飲み掛けのワイルドターキーの瓶にパーティー開けされたミックスナッツ、スリープ状態のデスクトップ…

彼が死んだことよりも、その存在の残滓が依然として生々しく残っていることに俺はなにか恐ろしさを感じた。


そして生暖かい薄暗闇のなか、無機質かつ規則的な高音のノイズが響いている。

非現実的な浮遊感のなか響く一本調子のそれは、モスクから聴こえるアザーンの荘厳さを以って俺の存在に迫った。

この音は(これはあとで知ったことだが)水が蒸発し嵩が減ってしまった水槽の循環ポンプのモーターが水を吸えずに空転する音だった。


「息子の名前は「とうじ」でした」


呆然と立ち尽くす俺の背後で「ねりね」の母だった人が独り言のようにそう呟いた。

その瞬間、俺はこの世界の罠に嵌っていることに気付き気持ち悪くなった。

吐き気が込み上げてきた、ロカンタンのように。


俺はめまいを覚えながら音のするほう、部屋の右奥に目を遣る。

そこでは黒いカーテンの隙間から溢れる光の無重力のなかを、濃紺の魚がその異様に発達させた丸い鰭をきらきらなびかせゆっくりと上昇していた。


「あれは「とうじ」が世話していた魚です」


「あの、こんなことを頼むのは失礼かもしれないのですが」


「もしよろしければあの魚をあなたに引き取っていただきたいのです」


「恥ずかしながら、私どもはまだ「とうじ」の死に向き合えていない状態でして」


「あの魚を世話するほどの気力がないのです」


それは確かにまだ手付かずのこの部屋の様子から見てとれた。


「わかりました」


俺はその魚と水槽の水をビニール袋に移し、水槽や餌などの飼育用品と共に「とうじ」の母がくれた大きな紙袋に入れ逃げるようにその家から去った。


それから帰りの電車でベタの飼育法を調べ、帰宅しさっそくデスクの上に水槽を置き水とベタを移した。ベタの名前を訊くのを忘れていたので「ねりね」と名付けた。それは色々名前を勘案するなかなんとなくそれがしっくりきたというだけで特に理由はなかった。


「ねりね」は引っ越して最初は落ち着かずうろうろしていたが、2時間も経つと最初「とうじ」の部屋で見たときのように悠然と漂っていた。

「とうじ」の部屋から持ってきた餌を浮かべてやると「ねりね」は俊敏なターンで頭を振りぱくっと食べた。


俺はそれからというもの毎日仕事から疲弊し帰ってきて真っ暗な部屋で「ねりね」がライトの白光のなか、ゆらと泳ぐのを呆然と眺めながら酒を飲むようになった。そうしているとなんだか気が安らぐのだった。


そしていつしか俺は酩酊して「ねりね」に話しかけるようになっていた。その内容は他愛ないこと。仕事や女の愚痴や、明日は昼何食べようか、とか、今日見た夢の話だとか、Twitterで呟くような日々の泡沫を俺は「ねりね」に溢した。

そうしていると満たされてしまうので、やがて俺は全てのSNSの更新を辞めた。

「ねりね」に心の内を溢すのは、まるで今までの「生」からはみ出したような、むず痒く癖になる心地がした。俺は酔って毎日「ねりね」に話しかけながら寝落ちした。


「ねりね」に話しかけるようになってから1ヶ月ほど経ってからだろうか、その頃から妙な夢を続けて見るようになった。

俺は紺碧の空から落下していて気付くとその空と境界のない、同じ色の海の中を空を落下するときと同じすごい速度で堕ちていって、そして踠く俺の口中から飛び出る虹色の泡たちはそれぞれ魚になって昇り散らばって泳いでいく。

その魚たちはまちがいなく俺の一部で魚が泳ぎ去る毎に途方のない喪失感に襲われる。

それから俺は海溝のぽっかり開いた恐ろしい無間の闇に吸い込まれ、そこではっと目が醒める。

醒めたとき、動悸がすごく、汗をたくさんかいているのでこの夢はどうやら悪夢に属するものらしい。


しかしその抜け出せない鮮烈な地獄にも徐々に変化が現れる。

夢の構成は同じだが、口から出る泡の魚が言葉を伴うようになる。夢の沙汰なのでこの変化を言語化するのは難しいのだが、口から出るのは泡であり魚であり言葉なのだ。そして言葉というのは意志であるため、魚となった言葉は口から飛び出したあと俺に伴うようになった。そして魚たちは俺の意志により隊列を組み、その行動様式が緻密になるたびにセンテンスになっていった。そして遂に僕は堕ちている間だけその魚の言語で海と会話できるようになった。


そのような状態になっていたある日、帰宅しドアを開けると。


「オカエリイ」


ということばが聴こえた。

それは「ねりね」の声なのだと俺の心は理解していた。

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