あのとき僕は母の言いつけ通りにしたのだと思う。

 一緒に遊ぶ友達などいなかったから、たぶん近所にあった墓地の東屋で時間潰しをしていたのだろう。

 そして夕暮れを待ってコンビニで弁当を買って帰ったはずだが、やはりあやふやな記憶さえない。

 ただ憶えているのは帰ると母親はまだ寝室で眠っていたこと。 

 そして冷蔵庫の中からあの正体不明の何かが消えていたこと。

 その謎めいた事実を幼かった僕はどのように解釈したのだろうか。

 憶えてはいないけれど、きっと謎は謎のままに具合の悪い母の隣に布団を敷いて眠ったのだと思う。


 それから三年が経った春先のこと。

 僕は小学四年生になろうとしていた。

 口下手でいつも薄汚れた身なりをしていた僕にはあいかわらず友達と呼べる存在はなく、また取り立てて勉強や運動が得意なわけでもなく、特に何かに興味を持つこともなく、いつも一人きりで何をするともない虚無な日々を送っていた。

 ただ身辺には少しばかり変化があった。

 古ぼけた木造アパートの一階の端部屋。

 そこに居住まう人間が増えていた。

 

 前年の初冬。

 切れ味の良いナイフのような冷気が朝の空気に含まれるようになり、隣家の楡が赤や黄に染めた葉をアスファルトに落とし終える頃。

 その日、学校から戻ると居間に見知らぬ若い男がいてタバコを吸っていた。

 男は短く刈り込んだ頭の下に厚みのある目蓋と細い目を持ち、太々しい表情を浮かべてテレビを眺めていた。

 そしてランドセルを背負ったまま立ち尽くした僕に気付くとその丸顔に見るからにわざとらしい笑顔を作った。


「おう、おかえり。あんた、亜月あつきくんいうんやろ」

 野太い声に何も返せずにいると後ろから母が現れて、いつになく朗らかな声を出した。

「あ、この人、ユウジさんいうんやけどな。今日から一緒に暮らすことになったから」

 平然とそう告げた母は僕の肩口をすり抜け、ユウジさんのそばに寄り添うように座った。そして手にしていた二本の缶ビールとつまみを盛った白い皿をカジュアル炬燵の天板に載せ、それからその一缶をすぐに引き取ってプルタブを引いた。


「ま、そういうわけやからよろしゅう頼むわ。な、亜月くん」

 

 ユウジさんはいかついフォントの英文字ロゴの入った真っ赤なパーカーを着ていた。僕の鼓膜に潜り込んだ彼のおどけた口調はそこはかとなく不吉な予感を抱かせが、僕はその胸の辺りに視線を漂わせながら、なんとかもたついた会釈を返した。

「なんやの亜月、もうちょっとマシな挨拶しいや」

 ビールを喉に流し込んだ母が不満げな目つきで僕を睨む。

 するとユウジさんはタバコを揉み消し、それから缶ビールを取るついでにつまみの皿を指さした。


「まあ、ええがな。亜月くん、これ食べるか。柿の種、うまいで」


 僕は無言のまま首を振った。

 するとユウジさんはちょっと下唇を突き出し、それから柿の種を無造作に摘んでその口に放り込んだ。


「ごめんなあ、ちょっとも愛想がないんよ、この子は」

「ええわいな、別に。そのうち慣れるやろしな」


 ボリボリと柿の種を咀嚼したユウジさんはプルタブを引き開けて一気に缶の半分ほども飲み干したかと思うと、それから急に母の肩を抱き寄せた。

 手元が揺れ、缶からいくばくかのビールがこぼれ落とした母はやや戸惑った嬌声を漏らした。


「もうあかんてぇ、亜月が見てるやんか」

「ええわいな、別に」


 それが彼の口癖だった。


「亜月、外で遊んできぃ」

 母の艶かしい笑声に僕は従うしかなかった。


 母は夜の仕事をしていた。

 不規則だったが週に四日か五日は働きに出ていたと思う。

 だいたい夜の七時ごろに出かけ、帰ってくるのは深夜か朝方だった。


 荒れた肌。

 濃い化粧と酒の匂いのする息が混ざった嫌な匂い。

 ただ長く伸ばした黒髪の艶だけは子供の僕でもハッとするほどに美しかった。


 母は男を連れ帰ってきては一緒に住まわせることがあった。

 けれどたいていその関係はすぐに破綻して、長くてひと月かそこらで男が出ていくのが常だったけれど、ユウジさんは例外だった。

 それまでの男たちに比べて相性が良かったのか、あるいはなにか別の事情があったのか、それはよく分からないが僕たちの同居生活はその後しばらくは続くことになった。

 

 


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