猫骨 A

那智 風太郎

 カルシウム、リン酸、ナトリウム、マグネシウム……。

 

 図書館の隅にある古い棚で埃を積もらせていた百科事典で調べてみると、弟の主成分はどうやらそのようなものであるらしかった。


 小学校に上がる少し前のこと、母親の腹が妙に迫り出してきた。

 腕や脚は細いままなのにどうしてお腹だけが膨らんでいるのか。

 幼いながらにそれが不思議に思えた。

 ある日の夜、寝巻きに着替える母の下腹をまじまじと見つめていると、やがて彼女はその視線に気がつき苦虫を噛み潰したような顔になった。

 瞬間、僕はそれが地雷であると認識した。

 母親の中には常にいくつかのそういうアンタッチャブルな部分が存在していて、知らず踏み入ると逆鱗に触れ、殴られることもしばしばあった。

 そういうわけで以後、僕は不自然に膨らんだ母の下腹にできるだけ目を向けないように注意して過ごした。


 たしか大型連休が終わってしばらくしてからのことだった。

 夕方、学校から戻ると母が苦しげに呻いていた。

 家は古い木造アパートの一階で、声はその一番奥にある六畳の寝室から聞こえていた。襖戸の隙間から覗くとミノムシのように布団にくるまった母親が見えた。

 声を掛けようとしたけれど、思い直して止めた。

 気遣いや心配を差し向けたところでどうせ無視されるのがオチで、下手をすれば却って藪蛇になりかねない。

 僕はそっと襖戸を閉じて台所まで戻ると別の憂いを頭に浮かべた。

 夕飯のことである。

 体調を崩した母親に料理を出してもらえる可能性はゼロに等しい。

 母はもともと料理などほとんどしないたちで、夕飯はスーパーで売れ残っていた惣菜かあるいはレトルトのカレーなどが常だった。

 とりあえず僕は少し考えてからシンク下の戸棚を開けた。

 そこはよくカップラーメンなどが詰め込まれている場所だったが、あいにくその日は見当たらなかった。

 次いで僕は小型の冷蔵庫を開けた。

 けれど目に入ったのは無機質な白い光に照らされた缶ビールやマーガリンばかりで夕飯になりそうなものはなにもない。

 僕は肩を落とした。

 仕方がない。

 母親がツマミにするスナック菓子がどこかにあるはずだ。

 今夜はそれで我慢しよう。

 早々にまともな夕食を諦め、冷蔵庫を閉めようと扉に手を添えた僕の目にふとチルド室の半透明な扉の奥にあるうっすらと赤い部分が映った。

 なんだろう。

 とりあえずチルド室に手を伸ばし、その扉を引き開けて覗いた。

 するとそこには真っ白なレジ袋が無造作に詰め込まれていて、その中に奇妙にねじくれた形をした赤いものが透けて見えた。

 肉……?

 首を傾げた。

 小学一年生だった僕の知る肉はプラスチックトレーにパックされてスーパーの精肉コーナーに並べられているものであり、このように無造作に袋に入れられているはずのものではなかった。

 僕は恐るおそる指を差し向けてそれを触った。

 すると指先に奇妙な感覚が伝わってきた。

 ぬるりとした触り心地。

 そして弾力の乏しい柔らかさとわずかな温もり。

 やはりそれは肉としか言えないような質感でしかも……少し動いた気がした。

 え……。

 僕はすぐさま指を引き戻し、身をこわばらせた。

 なに、これ……。

 怖じた僕が、けれどもう一度触ってみようかどうかと逡巡しているとそのとき、背後で低く掠れた声が響いた。

「なにやっとんや、アツキ」

 跳び上がるようにして振り向くと寝巻き姿の母がいつのまにかそこに立ち、青白く疲れ切った顔で僕を睨みつけていた。その表情と浅く速い息遣いは暴力を振るう前のあの鉄臭い感じの気配に満ちていて、僕はあわてて後ろ手にチルド室を閉じた。

 するとやにわに不穏な沈黙が立ち込め、同時に甲高い電子音が辺りに鳴り響いた。それは冷蔵庫が放つ開け放し防止のアラーム音だった。

 僕はその耳障りで場違いな音に内心落ち着きを無くしながらも、その場で立ち尽くした。

 こういうときに自分から行動や言動を起こすことはタブーだった。

 どんなときも母の苛立ちや怒りを緩和できるのは受動と無抵抗だけであり、だから僕はアラームを鳴らし続ける冷蔵庫の前で身じろぎもせず、弁解もなくただうつむいて下されるはずの母親の裁きを辛抱強く待った。

 しばらくの沈黙の後、床に向けた視界に母の素足が映り込んだ。

 次いで彼女の右手がこちらに差し出されてくるのが見えた。

 殴られる。

 そう覚悟して首をすくめたが、意外にも彼女の手は僕の肩口を通り越して冷蔵庫の扉をそっと押しただけだった。

 扉が小さな音を立てて閉じ、アラームも止まった。

 それでも僕は床を見つめたまま、油断なく母の息遣いを探った。

 すると浅く速く、けれどどこか逡巡の気配のある不均一な呼吸がいくらか続いた後で不意にひとつ長く細い息が吐き出された。

 それはいつもの凶暴にささくれたため息ではなかった。

 諦観や沈静のためでもない。

 なんというかドロドロとした血の汚れのような毒を吐き落としてしまいたい、そう願うような深く、それでいて儚げなため息だったように思う。

 そして母は言った。

「外で遊んできいや」

 その平坦で無機質な声に恐るおそる目線を持ち上げると感情の色味の乏しい瞳が僕に向けられていた。

 うなずくほかなかった。

 そしてうなずくと四つ折りにした千円札が差し出された。

「帰りにコンビニの弁当買っておいで」

「……二つ?」

 指先で受け取りながら訊く。

「あんたの分だけや」

 ぶっきらぼうにそう答えた母は僕に背を向け、寝室の方にふらついた足を運ぶ途中、唐突に振り返って言った。

「それと、暗うなるまで帰ってきたらあかんで」

 その鋭いまなざしにうなずくと次いで襖戸がキツイ音を立てて閉じられた。

 


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