空色杯5

mirailive05

名画以上凡作未満

「……こいつが謎の天才画伯の最後の作品ですか」

 イシュトヴァン・ハイデ、活動期間はわずか三年間。その間に一〇七もの作品を生み出し、そして消えた幻の画家。

 没後数十年たつが、いまだファンの人気は衰えない。複製絵画だけではなく、その絵を使われたグッズもいまだに売れ続けている。


 ハイデ財団の代表理事であり、画伯の絵の管理人兼元妻のハイデマリー・ステファニション女史に案内されて、意外なほどこじんまりとした事務所兼画廊で、美術保険外交員の俺は拍子抜けした表情を晒していた。

 ひとしきり絵を見る。タッチは本人の特徴を示している、が……

「言いにくいことですが凡作ですな、本当に画伯の作品ならば、逆に驚くところだ」

 早急な結論は避けたいところだが、これだけハイデの特徴を色濃く漂わせながらも、それまでの作品のような深みも洗練さも魅力も、この絵には見事に欠けて何もなかった。しいて言えば温かい色調の割に寂しさのようなものを感じなくもない、といった程度だ。

「私には絵のことはわかりません、ただ彼はこれを描くためにすべての作品を描いたのだと言っていたのを、この絵を再び見つけたときに思い出しましたわ」

「凡作を描くために、あの数々の名画を描いたと?」

「ええ」

「天才の考えることは、よく分かりませんな……」

 この仕事を始めて、俺は多少なりとも絵画の見方はできるようになった。そうじゃなければ美術品の保険外交員なんぞできはしない。

 長年やっていると、たびたび著名画家の未発表作を見せられるなんてこともある。しかしこんな胸の躍らない新作発見は初めてだ。たとえこれが本物と確定しても、いったいだれが喜ぶというんだ?

「無理をさせてしまったのかもしれません」

 女史は当時を思い出すように言った。そこには多分に後悔の念が含まれているようだった。

「私が思いついたものを絵にしてもらっていたのです」

 絵画とは縁のない、勉強ばかりの学生時代を送った女子は、就職のためこの街に来ると、出会ったばかりの若かった画伯がさらさらと絵を描き上げる様に感動して、足しげくアトリエに通ったらしい。

 やがて交際に発展し、結婚して数年たったある時リクエストを聞かれて、女史は思うままに想像を語った。

 はじめにこやかにその想像というか構想というかを聞いていた彼は、やがて驚愕し考え込み、すぐさま筆を執った。

「私の思い付きを、彼はとり付かれたように描いていったの」

 寝る間を惜しみ、ひたすら描き続ける画伯を、女史は止められなかったと言った。

「あの頃の私にもう少し忍耐力があれば……」 

 そして離婚。幸か不幸か、絵の管理とマネジメントは継続された。 

 俺は再び絵を見た。

 画伯の絵には二つの顕著な特徴がある。

 一つは筆を使っていないようなタッチ。そしてもう一つが毎回巧妙に隠された〈IHS〉のサインだ。

 だがこの絵にはどんなに細かく見ても〈I〉と〈H〉だけしか読み取れない。どうしても〈S〉らしきものがないのだ。

 初期の作品には小文字サイズの〈s〉

 それはだんだん大きくなり、後期になると大文字の〈S〉になっていた。

 だがいずれの作品にも〈IHS〉のサインはあった。しかしこの絵だけに〈S〉がない。

 そこだけが奇妙な点だった。最後の作品だけ何故、絵に〈S〉をつけ忘れたのか?

 前々から〈S〉についてはさまざまな説があった。複数形、所有格、etc…

 謎の〈S〉

 さらに細かく見れば隠されるように巧妙に描かれているかもしれないが、そうするとなぜ〈S〉だけを執拗に巧妙に隠したのかという疑問が生まれる。

 些細だと言えば言えなくもないが、いや、そこには必ず意図が隠されてあるはずだ。

 I・H=イシュトヴァン・ハイデとするとSが余る。

 初期には小文字の〈s〉、だんだん大きくなっていき、後期は大文字の〈S〉に。

 Sが段々大きくなった理由は?

 俺はあることに気が付いて、確認をするために女史に向き直った。

「失礼ですが、女子の正式な名称は?」

「ハイデマリーですわ。ハイデマリー・ステファニション」

 ああ、そういうことか……


 彼にとってあの数々の作品は妻との共同制作だったのだ。魂は元妻、技術は画伯、その二つのアンサンブルがあってこその名画の数々、どちらが欠けても生み出されはしなかった。

 しかし離婚とともにアンサンブルも解消、かくて名画も生まれなくなった……

 天才の妻の呪縛から解放され、やっと凡人の自分を取り戻した。

 そして再び絶望したのか。

「なぜあの人は、最後にペンギンを描いたのでしょう……」

 華やかな都会の光りのような妻の才能に包まれた、南極とは場違いな場所で佇む孤独な凡才ペンギン。

 最初で最後につかんだ自分だけの作品。

 おれは口には出さなかった。いずれ分かる事かも知れないが、俺から言うのは後味が悪い。

「さあ、天才も凡人も、人の考えることは俺にはわかりません」

 俺には絵の中のペンギンが、寂しげに笑っているように見えた。

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