善悪の彼岸

 僕の脳味噌カレーが爆発して、太古の海へと還ってゆく。理性のレンタル稼業も下火になって、一心不乱にフラフラの毎日。アルバート・キングのベンディングノートに耳を傾けながら、思考に過去というセピアの壁を穿つよう仕向けてやるにはモッテコイの日々。二億六千万年と三十二日目。太陽は今日も甘すぎた。


 棚に置かれた額縁の牢獄に、独り閉じ籠るチャイコフスキー。その悲愴な肖像に目を遣ると、部屋の小さなガラス窓越しに、虹色のいわしが巨大なたこに喰われる咀嚼音がネチョっと響いてくる。……墨に染まる前に、ああ、虹色の鰯たちよ、君たちは最期の祈りに間に合ったのだろうか。


 二十四世紀末には、地球上の人間は一人残らずピテカントロプス。……とは言え、木星はその頃には既にブラックホールの気紛れに絞め殺されているはずだから、あなた方の頭の中で発酵している平等の大君The Great King of Equalityの預言 ───「樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、それは種だと誰もが答えるだろう」─── は、きっと正しくない。……通り過ぎた雨が、明日の影を器用に踏み固めることはあったとしても。


 人生行路の節々に韻を外して口惜しく思う度に、あなた方の内なるポセイドーンは七つの海に曙光の繁栄をもたらす。その奇跡は全て、他ならぬあなた方の心の日記に仕舞われている。尖りすぎた針先が母なる時計の文字盤に皺を増やしてゆくのを、八億七千万年前の月が口を閉ざして緩く眺めている。ああ、激情のうたは、昨日もやっぱりカメレオンだった。


 老獪な論理の綾を蟹のはさみで切り落とすのは、いつだって睡蓮の根の、玻璃色はりいろの情。……おお、血のインクを悔やむなかれ! その潤いは、誤読された孤独が怒りと共に目覚めた夜、あなた方の歩む道に必ず還ってゆく。のネプチューンが、我々のを絶えず廻っているように。


 ふと、輝石きせきのカーテンを僅かに開けて、窓の向こうに目を細める。今夜もまた、からすの寝息にタップリ染められた土砂降りであるらしい。……ああ、大地の海のうたの上、あなた方に鋏を奪われた蟹の死体が、いつものように朽ちている。

 明日になれば、二億六千万年と三十三日目。

 靴底に震える僕の太陽は、永劫回帰の闇の中、更に甘味を増すに違いない。



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